2: 2009-09-09 (水) 11:59:33 admin ソース 3: 2009-09-10 (木) 09:41:32 admin ソース
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赤松軍と山名軍が対立した嚆矢は、おそらく観応の擾乱(じょうらん・一三五〇~五二年)で、足利尊氏と弟直義が間隙を生じ、直義が鎌倉で毒殺された後であろう。しかし、この時赤松軍と山名軍が干才(かんか)を交えた記録はない。故に、最初の合戦は、「太平記」の第三十二巻に見える神南(こうない)合戦(一三五五年)である。神南は山崎の西、桜井駅の南にある。引用すると、 赤松軍と山名軍が対立した嚆矢は、おそらく観応の擾乱(じょうらん・一三五〇~五二年)で、足利尊氏と弟直義が間隙を生じ、直義が鎌倉で毒殺された後であろう。しかし、この時赤松軍と山名軍が干才(かんか)を交えた記録はない。故に、最初の合戦は、「太平記」の第三十二巻に見える神南(こうない)合戦(一三五五年)である。神南は山崎の西、桜井駅の南にある。引用すると、
-「一陣二陣忽(たちまち)に攻破られて、山名彌(いよいよ)勝に乗じければ、峰々にひかえたる国々の軍勢共、未だ戦わざる先に捨鞭を打て落行きける程に、大将羽林(うりん)公(注、足利義詮)の陣の辺には僅(わずか)に勢百騎計(ばかり)ぞ残ける。是までも猶佐々木判官入道道誉、赤松律師則祐、]人、少も気を屈せず、敷皮の上に居直りて、『何(いず)くへか一足も引き侯べき。+ 「一陣二陣忽(たちまち)に攻破られて、山名彌(いよいよ)勝に乗じければ、峰々にひかえたる国々の軍勢共、未だ戦わざる先に捨鞭を打て落行きける程に、大将羽林(うりん)公(注、足利義詮)の陣の辺には僅(わずか)に勢百騎計(ばかり)ぞ残ける。是までも猶佐々木判官入道道誉、赤松律師則祐、]人、少も気を屈せず、敷皮の上に居直りて、『何(いず)くへか一足も引き侯べき。 
 + 只我等が討死仕りて侯はんずるを御覧ぜられて後、御自害侯へ』と、大将をおきて奉りて、彌勇みてぞ見えたりける。大将の陣無勢に成て、而も四目結の旗一流有と見へければ、山名大に悦て申しけるは、『抑(そもそも)我此の乱を起す事、天下を傾け将軍を滅し奉らんと思うに非ず、只道誉が我に無礼なりし振舞を憎しと思う許(ばかり)也。此に四目結の旗は道誉にてぞ有らん。是天の与たる処の幸也。自余の敵に目な懸そ。あの頸敢て我に見せよ』と歯嚼(はが)みして前(すす)まれければ、六千余騎の兵共、我先にと勇み前んで大将の陣へ打て懸る。敵の近事二町許(ばかり)に成にければ、赤松律師則祐、帷幕を颯(さっ)と打挙げて、『天下の勝負此軍に非ずや。何の為にか命を惜むべき。名将の御前にて粉れもなく討死して、後記に留めよや』と下知しければ、云々」 
 +と、あって、両軍、ここを先途と戦い、血河屍山を築くのである。しかし、この文面から明らかな如く、お互いの遺恨によって戦ったのではなく、山名は南軍の一翼を担い、赤松は足利義詮を守らんとしただけの事である。ここに登場する山名は時氏の嫡男師義の事で、彼はこの戦いで、左の眼を小耳の根へ射付けられ、自害せんとした処を、河村弾正が馳寄って、おのが馬に掻乗せて逃がし、自らは殿(しんがり)となって切り死にした。
-只我等が討死仕りて侯はんずるを御覧ぜられて後、御自害侯へ』と、大将をおきて奉りて、彌勇みてぞ見えたりける。大将の陣無勢に成て、而も四目結の旗一流有と見へければ、山名大に悦て申しけるは、『抑(そもそも)我此の乱を起す事、天下を傾け将軍を滅し奉らんと思うに非ず、只道誉が我に無礼なりし振舞を憎しと思う許(ばかり)也。此に四目結の旗は道誉にてぞ有らん。是天の与たる処の幸也。自余の敵に目な懸そ。あの頸敢て我に見せよ』と歯嚼(はが)みして前(すす)まれければ、六千余騎の兵共、我先にと勇み前んで大将の陣へ打て懸る。敵の近事二町許(ばかり)に成にければ、赤松律師則祐、帷幕を颯(さっ)と打挙げて、『天下の勝負此軍に非ずや。何の為にか命を惜むべき。名将の御前にて粉れもなく討死して、後記に留めよや』と下知しければ、云々」と、あって、両軍、ここを先途と戦い、血河屍山を築くのである。しかし、この文面から明らかな如く、お互いの遺恨によって戦ったのではなく、山名は南軍の一翼を担い、赤松は足利義詮を守らんとしただけの事である。ここに登場する山名は時氏の嫡男師義の事で、彼はこの戦いで、左の眼を小耳の根へ射付けられ、自害せんとした処を、河村弾正が馳寄って、おのが馬に掻乗せて逃がし、自らは殿(しんがり)となって切り死にした。かくて、神南合戦に山名は]敗地にまみれた。ついで赤松氏との合戦は、美作国で起った。時に康安元年(一三六一年)であった。+かくて、神南合戦に山名は一敗地にまみれた。ついで赤松氏との合戦は、美作国で起った。時に康安元年(一三六一年)であった。
「太平記」第三十六巻には、 「太平記」第三十六巻には、
-「斯(かか)る処に、七月十二日山名伊豆守時氏、嫡子右衛門佐師義、次男中務大輔、出雲、伯耆、因幡、三ケ國の勢三千余騎を卒して美作へ発向す。云々」に始まり、「赤松筑前入道世貞、舎弟律師則祐、其弟弾正少弼氏範、、大夫判官光範、宮内少輔師範、掃部助直頼、筑前五郎顕範、佐用、上月、真嶋、柏原の一族相集て二千余騎、高倉山の麓に陣を取て、敵倉懸の城を攻めなば弊(ついえ)に乗じて後攻をせんと企つと聞えければ、山名右衛門佐師義、勝(すぐ)れたる兵八百余騎を卒して、敵の近付ん所へ懸合せんと、浮勢になりて引(ひか)えたり。-中略-去程に倉懸の城には人多くして兵粮少なかりけば、戦う度に軍利有りといへども、後攻(ごづめ)の憑(たのみ)もなく、食盡(つき)矢種盡きければ、力なく十一月四日遂に城を落ちにけり。是より、山名山陰道四箇國を并(あわ)せて勢彌近國に振うのみに非ず、諸國の聞え、おびただしかりければ、世の中如何(いかが)あらんと危く思わぬ人も無かりけり」と、あって、山名の勝利に終った。+ 「斯(かか)る処に、七月十二日山名伊豆守時氏、嫡子右衛門佐師義、次男中務大輔、出雲、伯耆、因幡、三ケ國の勢三千余騎を卒して美作へ発向す。云々」 
 +に始まり、 
 + 「赤松筑前入道世貞、舎弟律師則祐、其弟弾正少弼氏範、、大夫判官光範、宮内少輔師範、掃部助直頼、筑前五郎顕範、佐用、上月、真嶋、柏原の一族相集て二千余騎、高倉山の麓に陣を取て、敵倉懸の城を攻めなば弊(ついえ)に乗じて後攻をせんと企つと聞えければ、山名右衛門佐師義、勝(すぐ)れたる兵八百余騎を卒して、敵の近付ん所へ懸合せんと、浮勢になりて引(ひか)えたり。-中略-去程に倉懸の城には人多くして兵粮少なかりけば、戦う度に軍利有りといへども、後攻(ごづめ)の憑(たのみ)もなく、食盡(つき)矢種盡きければ、力なく十一月四日遂に城を落ちにけり。是より、山名山陰道四箇國を并(あわ)せて勢彌近國に振うのみに非ず、諸國の聞え、おびただしかりければ、世の中如何(いかが)あらんと危く思わぬ人も無かりけり」 
 +と、あって、山名の勝利に終った。
つぎの合戦は明徳二(一三九一)年十二月三十日の明徳の乱である。「明徳記」から、 つぎの合戦は明徳二(一三九一)年十二月三十日の明徳の乱である。「明徳記」から、
-「赤松上総介義則一千三百余騎。二條猪熊、松文字書きたる大旗を真前に進めて申けるは、今朝の合戦は大内勢手を砕ぬ。当手の兵荒勢にて合力の為に馳向べき由仰下されつる上ぱ他人の軍を待つべからず、先一+ 「赤松上総介義則一千三百余騎。二條猪熊、松文字書きたる大旗を真前に進めて申けるは、今朝の合戦は大内勢手を砕ぬ。当手の兵荒勢にて合力の為に馳向べき由仰下されつる上ぱ他人の軍を待つべからず、先一
#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号) #navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)


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