ページへ戻る

− Links

 印刷 

法話​/お通夜の挨拶 のバックアップソース(No.1) :: 東林山法雲寺のホームページ

xpwiki:法話/お通夜の挨拶 のバックアップソース(No.1)

  Next »[4]
*お通夜の挨拶 [#ce820263]
ここ数年お通夜の場などではこんな挨拶をする事が多くなってきました。

**別れだけの場? [#z15171cb]
「お葬式とは故人との別れの場であります。しかし、もし人に魂というのもが有るならば、単なる別れの場だけではなく、来世に旅立つ故人の魂と又どこかで巡り会えることを願い祈る場でもあると思っています。」と言った具合です。

お葬式のことを告別式と言いますから、当然、お葬式は「別れを告げる」場なのです。ですから、「再開を祈る場」と言われても少し奇異な印象を持たれると思います。

洋の東西を問わず、この生身の体が有り、そこに魂を宿して生きている我々、体が動きを止め魂が離れていく状態を死と考えるのは、人類共通の観念かも知れません。
しかし、我々日本人ほど、死後の魂の行方についての考えが曖昧な民族も少ないのでは無いでしょうか?

日本民族固有の自然崇拝的な下地の上に、農耕神・祖先神を中心とした神道に通じる考え方や、元々はインド発祥の仏教、中国が起源の道教などの諸宗教や、最近では天国(キリスト教徒専用の極楽?)という言葉の乱用に見るが如く、キリスト教的な考えまで入り混じって、日本人の来世の魂の行方について、絶対的な正解が見つかりません。(例えばご先祖は何処に居られる?と聞けば、「極楽」と答える人、「仏壇」・「お墓」、息を引き取った所・・・と様々な答えが返ってくるように思えます)
極端な例はともかく、信じる人が居る限りは、どんな他界観でも「それは絶対に違う」とは言い切れません。
しかし、何でも有りの他界観や魂の行方では話になりませんので、ここは仏教的な側面で話を続けます。

**六道世界 [#wd8a4739]
今を生きている我々は六道(天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)世界の中の「人道」で日々生活をしているわけです。ここでの生が尽きれば又六道のうちの何処かに次の生を授かり、生まれ変わり死に変わり六道を輪廻転生する宿命にあります。
しかし今生の生で素晴らしい善行を積んだり、仏道修行を極めた人の中には、極楽浄土が用意されているのですが、実際のところ、なかなかハードルは高いような気もします。

この六道は、皆さん日々の生活で実感されているが如く、生きていくことに伴う悩みが不思議と次から次に無限に湧き出てくる世界で、基本的に仏教では「苦の世界」・「悩みの世界」ととらえます。(しかし「人道」は苦しみだけの世界では無く、結構住み良い世界と私には思えます。)
一方、極楽は生きていくことに伴う一切の苦しみから開放された「楽」のみの世界で、気候は穏やかで、妙華咲きそろい、常に仏様の説法を聞き、日々、悟りに向けた修練を重ねる場なのだそうです。
(理想郷といえば理想郷ですが、「でも短期間で退屈してしまう・・・」と思うのは私が不心得者だからでしょうか?)

それ故、葬儀の後、七日・七日の逮夜では家族親族が集まり、故人の冥福を祈って祈りを捧げますが、これは故人の来世の生が極楽世界にたどり着けるように、又、六道世界に戻るならば、「修羅道」や「餓鬼道」等、下の世界に転生するのでは無く、せめて今生と同じ人道の世界に、縁がもてるように現世から旅立った魂を応援し、仏に願うわけです。

さて、冒頭に「葬儀は再会を祈る場」でもあると書きました。
ご家族を亡くされたご遺族のお気持ちを察するに、「死」が無かった事に出来れば一番良いのでしょうが、こればかりはどうも誰も動かすことは出来ません。
故人の魂が再び六道世界に戻ってくるのであれば、今生と同じ人の世界に、もし人の世界に生まれる事が出来るのなれば、「今生、親族で有った人々と何処かで巡り会える縁を持てる所」に、故人の魂を宿して、生まれ変わり、また、いつか巡り会えれば・・・と期待しても良いのではないかと思います。

それ故、私は葬儀や通夜の時に「別れの場」でも有り「再開を祈る場」でもあると言う趣旨の挨拶をさせて頂いています。

信じるか信じないかの話になりますが、四苦八苦しながらも六道の中の、この「人道」を我々が生きているのは、現実であり、事実です。
魂が六道輪廻を転生するものならば「人生と言うのは、一度きり」では無いのかもしれません。
今生で積み上げた物そのもの全てが来世に引継がれる訳ではないですが、「魂というもので、今生と来世を繋いでいる」と考えれば、今生の人生を強く生き抜くことが出来るように思えますし、来世も来世で新たな人生を有意義に生きれるように考えます。

  Next »[4]