11: 2009-07-31 (金) 09:48:57 admin ソース 12: 2009-08-09 (日) 17:50:18 admin ソース
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「近代日本を理解するには、応仁の乱以降の歴史を知らなければならない」とされたが、「朝日百科・日本の歴史」の所載による、横浜市大助教授・今谷明氏の研究によると次のように発表されている。 「近代日本を理解するには、応仁の乱以降の歴史を知らなければならない」とされたが、「朝日百科・日本の歴史」の所載による、横浜市大助教授・今谷明氏の研究によると次のように発表されている。
「日本史を真っ二つに割るほどの重大な画期に位置する応仁の乱」とは、一体どのような内乱であったのだろうか。 「日本史を真っ二つに割るほどの重大な画期に位置する応仁の乱」とは、一体どのような内乱であったのだろうか。
-数ある内乱のうちでこの乱ほど目的・意図がはっきりしないわかりにくい内乱も珍しい。NHKのテレビドラマなどでも応仁の乱が題材になったこと +数ある内乱のうちでこの乱ほど目的・意図がはっきりしないわかりにくい内乱も珍しい。 
-は先ずない。と言われてみるとなるほどその通りだと思う。+NHKのテレビドラマなどでも応仁の乱が題材になったことは先ずない。と言われてみるとなるほどその通りだと思う。
人気のない内乱ということであろう。 人気のない内乱ということであろう。
内乱にけ高い理念がない。将軍義政は酒宴に明け暮れしている。英雄と悲劇の主人公も表われない。 内乱にけ高い理念がない。将軍義政は酒宴に明け暮れしている。英雄と悲劇の主人公も表われない。
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一四七三年(文明五年)には総帥の山名持豊と細川勝元が相いついで死去、厭戦気分がみなぎった。 一四七三年(文明五年)には総帥の山名持豊と細川勝元が相いついで死去、厭戦気分がみなぎった。
山名持豊の孫である「山名政豊」は、両軍の和平に力をつくし、将軍家から山城守護に補せられるや、勝元の子「政之」との間に和平の議がまとまった。 山名持豊の孫である「山名政豊」は、両軍の和平に力をつくし、将軍家から山城守護に補せられるや、勝元の子「政之」との間に和平の議がまとまった。
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**夜久野原の合戦-内藤塚のこと [#vd76bbfc] **夜久野原の合戦-内藤塚のこと [#vd76bbfc]
応仁の乱において利田山町臼井では「内藤塚」で知られているように、山名・細川両軍の間で激しい戦いが行なわれた。 応仁の乱において利田山町臼井では「内藤塚」で知られているように、山名・細川両軍の間で激しい戦いが行なわれた。
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だとするなら一五八○年(天正八年)以降ということになる。 だとするなら一五八○年(天正八年)以降ということになる。
もっとも、織豊時代以前の山城の構築として、山名.太田垣氏の手になるものと考えられる立派な「たて堀」や「砦」が残存し、現城跡より北へ二五〇メートルほど行った、通称観音寺山には、とりでやたて堀が雑木林の中にはっきりと残っており、山名時代をしのばせるのに十分である。 もっとも、織豊時代以前の山城の構築として、山名.太田垣氏の手になるものと考えられる立派な「たて堀」や「砦」が残存し、現城跡より北へ二五〇メートルほど行った、通称観音寺山には、とりでやたて堀が雑木林の中にはっきりと残っており、山名時代をしのばせるのに十分である。
 +***二、・竹田城跡の見どころ [#kc2d7c02]
 +竹田城跡の歴史的詮索はしばらく置いて、この城の見どころをズバリと申し上げたい。
 +ここ三、四年前から城跡に杖をひく人が本当に多くなってきた。
 +土曜日曜などは四季を問わない。若い男女が一番多いが年配者も少なくない。
 +クルマに乗っての人が多いが歩いている人も結構あ。
 +城址から何かを求めようとしている人は顔付きでそれとわかる。いいことだと思うしうれしい。
 +「どんなところか一度登ってみたい」と思ったら迷うことなくすぐそのまま登ることだ。危険なところはない。風化作用による小石の落下には注意していてほしい。歩くことだ。
 +山道を歩一歩ともの思いながら登る、などは何ものにも代えがたい最高の喜びである。しかも歴史の色濃くしみこんだ道ではないか。
 +
 +竹田駅うらからの古道は少々きついが、若者向きであり、歴史の小径でもある。比高一五〇メートルぐらいだから上り坂だと言ったところで問題ではない。
 +もう一本の道は大字竹田の南端・町はずれから、JRの線路を越えて舗装された一本道の城山道をまっすぐに行けばよい。中腹には新しく駐車場が完成した。
 +目忘れずにぜひ合掌してほしいのは、駐車場の西がわに、五月末完成予定で「山名・赤松両軍陣没諸霊供養塔」が美方郡村岡町・山名寺住職吉川広昭師のご奔走で建立される。
 +山名・赤松の両軍が恩讎讎(おんしゅう)を越えてまつられる浄地に手を合わせてほしい。恒久和平こそ万人の願い。供養塔こそ、そのシンボルであるのだ。
 +
 +城跡にたどりつけば眼下に展開されている景観を時間をかげてゆっくり楽しんでほしい。前方の粟鹿山をながめ直下の町並みを見る。右に左に展望が眼にこころよい。播但線と平行して円山川の清流が北へ流れ「竹田千軒城下町」ともではやされた人家が建ち並び
 +歴史を秘め一た面影を残している。
 +竹田城跡の見どころは「石積みの美しさ」にある。
 +穴太流野面積の見事さである。一にも二にも石垣に注意してほしい。しかし、石積み技法が始めから分かるということは無理なはなしで、時間をかけて見ていくうちに、少しずつ分るようになるものだ。
 +たとえば、花屋敷と言われている一郭から仰ぐ重畳たる石積みの重厚にして荘重なこと、南千畳に立って一望する石塁の壮大にして変化に富むすばらしい遠望は「石積みの饗宴」とでも言えようか。
 +***三、城の歴史をさぐる [#p46c5dfe]
 +竹田城は、但馬国の守護大名であった山名宗全の家臣で、この土地の土豪であった太田垣氏の居城であると言われている。
 +太田垣氏は但馬生えぬきの国人であったが、一四世紀の中ごろ関東上野国から来た山名氏に臣下の礼をとるようになった。
 +山名宗全は、一四四三年(嘉吉三年)初代城主として太田垣光景を配し、一五八○年、(天正八年)羽柴
 +秀吉の但馬攻めで太田垣氏による竹田城支配が終わるまで、景近・宗朝・宗寿・朝廷と五代続き、約一四〇年間の太田垣支配の時代であった。
 +一五六九年(永禄十二年)八月織田信長は羽柴秀吉に但馬攻略を命じた。但馬十八城はたちまち落城し、守護・祐豊は堺へ身をひそめた。信長は生野鉱山に対し発言権を確保しておきたかったのだ。一五七七年(天正五年)十月秀吉は、毛利氏上洛の行手をとどめるため要衝としての竹田城占拠を必要とし、第二回目の但馬侵攻作戦。十一月岩州城を、ひきつづいて竹田城を攻め落とし異母弟小一郎秀長を城代として入れた。
 +一五八○年(天正八年)五月、秀吉は鳥取城を中心とした因幡攻めを敢行する途次、秀長に再び但馬攻略を命じ反信長勢力の一掃をやらせた。山名祐豊の居城であった出石城も(有子山城)落城し、室町時代以後続いた守護山名氏の嫡流はここに終わった。
 +一五八○年(天正八年)竹田城主には、秀吉の部下「桑山重晴」が任じられた。治政五年、重晴は和歌山
 +城主に栄転し後任として今も敬慕されている「赤松広秀-広英とも書く」が最後の城主となった。
 +広秀は竹田に移住してからも「斑鳩寺」の鵤(いかるが)の太子を厚く信仰している。その境内には、赤松父子供養塔が建てられている。碑文は次のごとくである。
 + 赤松政秀・赤松広英侯 供養塔
 + 兵庫県知事 金井元彦書
 + 竜野城主 赤松政秀 文武の誉高くその子広英、また文雅の才あり藤原恨窩と善し 朝鮮の役に捕虜となりし大儒姜沆(きょうこう)の三人伏見の赤松邸に於て慶長三年九月より一年有半四書五経の訓点刊行を企て戦乱の世にはじめて文芸復興の烽火をあげ但馬竹田で仁政を布(し)き名君として慕われしが関ケ原の戦に石田三成に味方し家康の怒りにふれ慶長五年十月二十八日鳥取真教寺で自刃年三十九
 + 赤松氏は悲しくも断絶した 斑鳩寺の鐘楼は国宝三重塔を創建した父政秀の遺志を襲ぎ竹田より寄進したものである ここに有縁の士相寄り政秀広英父子の霊を弔いその文化的遺業を永遠に顕彰するためこの碑を建立する
 + 昭和三十八年十月建之
 + 東大教授文学博士 阿部吉雄 他七名
 +(七名の中の一人に、元竹田町長足立荘太郎氏がはいっている。)
 +
 +竹田城主「赤松広秀」の無二の親友は程朱の学をきわめ、儒学をもって家を成し民間の大儒として名高い「藤原慢窩」である。
 +慢窩は「赤松氏を悼む和歌三十首」を書きあらわし、広秀の死を悼んでいるが、その書き出しの一節がこうである。
 +「赤松左兵衛佐(さひょうえのすけ)広通は、ゆかりあるぬしにてもとよりしたしかりけるが、一とせ世の乱れしとき、亀井の何がし、しこちことによりつみなくて切腹せしが、年比(ごろ)ひめおきし書物など形見(かたみ)にのこして、文いとねんごろに書きおくりけるをみて、
 +かくばかり 終りただしき筆のあとを みるかひもなく乱れてぞ思ふ 
 +
 +(解釈)
 +赤松左兵衛佐広通は、わたしと縁故の深い人物であり、昔から親しくしていたのだっだが、ある年、戦乱の起きた時、亀井の何某という者のざん言にあって、罪もないのに切腹した。
 +長年秘蔵していた書物などを形見に残し、ねんごな手紙を、わたしのもとに書き送ってきたのを見て、次のように歌をよんだ。
 +死にのぞんで、とりみだしようすもない端正な筆跡を見て、せっかくの文字も涙にかきくれてしまうほど、わたしの思いは乱れる。と。
 +これによっても広秀がどんな人物であったかが推察されると思う。
 +広秀は赤松氏の支流ではあるが播州龍野城主・赤松政秀の次男である。
 +一六〇〇年(慶長五年)九月に「関が原の役」が起きたが、広秀は西軍に属し石田三成方として、丹波の田辺城に東軍「細川幽斉」を攻めた。西軍が敗れるに及んで、広秀の軍は竹田に引き返したが、鳥取城を攻めあぐんでいる亀井滋矩から「鳥取攻めを援助してくれるなら、西軍に組みした罪をゆるしてもらえるよう家康に頼むから」との、亀井の言に動かされて鳥取に出兵し功を立てた。
 +たまたま鳥取城下は出火によって多くの住民が困窮したが、家康の詰問と亀井のざん言によって罪を一身に負わされ、慶長五年十月二十八日鳥取真教寺において自刃した。年齢三十九歳であった。
 +
 +鳥取市湯所町「赤松八幡宮」の地に葬られている。
 +武人としての広秀は、また政治家としても文化人と
#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号) #navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)


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