10: 2009-07-30 (木) 20:33:50 admin ソース 11: 2009-07-31 (金) 09:48:57 admin ソース
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近年、朝来郡朝来町上岩津の真言宗「鷲原寺」(通称わしはらでら)に持豊が寄進したという十二神将が発見された。 近年、朝来郡朝来町上岩津の真言宗「鷲原寺」(通称わしはらでら)に持豊が寄進したという十二神将が発見された。
彼の信仰心の表われであるとともに、朝来郡との関係の深さを物語っていると言えなくもない。 彼の信仰心の表われであるとともに、朝来郡との関係の深さを物語っていると言えなくもない。
 +**赤松広秀の民政と史跡竹田城趾 [#r542f785]
 +&ref(ID$w82895bb,mw:320);P32写真
 +野面積の美を見せてくれる「竹田城跡」は、文禄から慶長の初期にかけて現在の遺構となった、と考証されている。
 +&ref(ID$hf201b8b,mw:320);P36竹田城地形図
 +**史跡・竹田城址をしのび赤松広秀を語る [#nf4bb447]
 +***一、今見る竹田城跡の構え [#l0949e66]
 +竹田城跡は、JR播但線竹田駅の西側にそば立つ「古城山」(海抜三五三メートル。朝来郡和田山町竹田)の頂上に築かれた「中世の山城」である。史跡に指定されている。別名を「虎臥城」(とらふすじょう)と呼んでいる。というのは、東方の小高いとごろから眺めると、南を頭
 +P34赤松系図部にして北方に長ながと伏せている虎の姿態に似ていることから、だれ言うとなく言い伝え言い習わしてきたものと思われる。
 +頂上の縄張りは、東西約一○○メートル、南北は約四〇〇メートルもあって、天守台・天主曲輪(くるわ)・二の丸,三の丸・北千畳・見付櫓・平殿・花屋敷・東の丸・南千畳と堂々たる構えが現存し、かっての日の偉容をもの語っている。
 +またこの城は、山名宗全の築城になるものと言い伝え、完成するにはほぼ十三か年を要し、一四三一年(永享三年)から一四四三年(嘉吉三年)までかかり、多くの農民が使役として動員され農地には小松が生えたと伝えられてきた。
 +ところで、最近専門家の研究によると現在我われが眼の前に見る壮大な遺構は、織豊政権成立当時、つまり「天正末期から文禄・慶長初期に築かれたもの」と決定づけられてきたことである。それは次のような理由による。
 ++宗全のころに築かれた城塁は、どことも土塁や濠が主で、竹田城跡に見るように整然として大規模な縄張りではなかったし構築ではなかった。
 ++竹田城跡の石積みは「古式穴太(あのう)流」の「野面(のずら)積」である。
 +この様式の最初の城は目「安土城」であり、安土城ならびに竹田城の修築をそれぞれ数か年にわたって手がけた。穴大流家元の粟田万喜三氏は「竹田城は、私たちの先祖が積んだものにまちがいありません。安土城を積んでからやって来たものです」と明言されている。
 +だとするなら一五八○年(天正八年)以降ということになる。
 +もっとも、織豊時代以前の山城の構築として、山名.太田垣氏の手になるものと考えられる立派な「たて堀」や「砦」が残存し、現城跡より北へ二五〇メートルほど行った、通称観音寺山には、とりでやたて堀が雑木林の中にはっきりと残っており、山名時代をしのばせるのに十分である。
#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号) #navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)


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