3: 2009-10-01 (木) 12:01:31 admin ソース 4: 2009-10-13 (火) 19:13:38 admin ソース
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**明徳の乱 [#i64b19c4] **明徳の乱 [#i64b19c4]
 +明徳二年(一三九一)三月、管領斯波義将が引退、前管領の細川頼之が復帰した。出家の身なので弟の頼基が管領に任ぜられた。大名制圧で将軍家権威の高揚をはかる頼之の登場で山名氏が動揺した。出雲守護山名満幸が同国に在る仙洞御領横田庄を横領する罪科で罷免、丹波に蟄居(ちっきょ)を命ぜられた。丹波は氏清の領国なのだから不思議な処置だった。一方、処罸流浪中の時熈らが赦免を出願している。
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 +同十月、氏清は将軍義満を宇治の別邸に招いた。紅葉狩の興だが、堺から上洛の氏清の到着が遅れ、義満が空しく帰還するという不都合が生じた。道中、浪人の満幸が氏清に処罸必至を説き、蹶起を勧めたという。氏清は堺に帰還、紀伊守護の義理を説いて反乱、同十二月に和泉・丹波の両方面から進軍、将軍家に決戦を挑んだ。内野(大内裏跡)が主戦場、大宮通りで合戦する。
 +氏清は敗軍、六分一大名山名氏が潰滅する。氏清が南朝に通謀したという噂が流れたが、これも将軍家側の宣伝であり、南朝牧東に利用したのである。この山名氏清討伐で将軍家の権威は確立、翌三年に南北両朝合体が実現する。
 +**山名時熈の功業 [#c47f75e5]
 +山名時熈(一三六七~一四三五)は内野合戦に奮闘、但馬守護と惣領職とを給わった。弟の氏之は伯耆守護を授かり、同志の從兄弟の氏家は許され因幡守護を保った。山名一族は連坐罪科は免れ、但因伯の地続き三国の保有が許された。足利将軍家は、大大名を誅伐するが、徹底絶家には至らず、これを赦免して名跡を存しているのが特筆される。大内・赤松氏らも同例である。
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 +時熈は山名氏を再興するし、守護大名山名家永続の基礎を築いたのである。時流を洞察、これに乗ったといえるが、なお時氏・氏清両先代の余光のおかげだといわねばならない。山陰道大将として室町幕府創業に貢献した山名一族の名声が時無の出世をたすけたのである。
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 +時熈は三管領家に次ぐ四職家として室町幕府の七頭政治の一員に列し武家政治を推進した。なお、将軍家貴族専制政治の義満・義持の隠居政治(側近政治)や義教の武断政治にも重臣として参じた。四職家はしょせん三管領家の下位だし、貴族専制政治と武家政治との矛盾撞着がしきりに露呈する。時熈は武功もあげるが、時に隠忍自重、難局をも巧みに克服した。応永八年(一四〇一)には大内義弘の旧領備後守護を給わり(堺の乱)、亡父の旧領を復したし、瀬戸内に進出することができた。時熈は但馬国人の太田垣通泰を守護代として入部せしめた。ちなみに、山名氏は上野から大葦・垣屋・小林らの国人を引連れて上洛した。時熈時代、垣屋同族の土屋遠江入道が但馬守護代となった。山名氏の四天王といわれたのは垣屋・太田垣・八木・田結庄であり、垣屋氏のほかは但馬国人である。ほかに田公・伊帙・安田・長・三宅・神床(一宮社家)らの国人が從つた。ただし、朝倉(八木らと同族)・伊達らの旧族は国外に去っている。次代の宗全が君寵を誇る政所執事伊勢貞親を弾劾し、将軍義政に一戦も辞さずと呼号して蹶起したとき、老臣十三人衆が諌止したと『応仁記』に見える。四天王のほかは上記の国人らであろう。室町将軍家全盛時代、その重臣として時熈が輝いたので、賊臣氏清の遺児ら一族も出世した。国元の家臣らも外様・譜代を問わず、これを誇り、此隅山(子盗山)城(出石町)に忠勤したのである(唐物茶碗も売買した九日市庭にも築城か)。下剋上の世が到来するが、山名領国はしばらく安泰だった謂れである。
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 +しかし、時熈は晩年、吉凶波瀾重畳の荒波にもまれた。黒衣宰相の三宝院満済准后に好まれ、長寿が幸いして重臣最長老として遇されたのは幸運だったが、応永二十七年に長男の修理大夫満時(栖眞院殿)の夭折に遭い、次いで出家して巨川常熈と称する。家督は次男持熈が君寵を得ているのにたいし、時熈は三男持豊(宗全)を愛したため決着はつかない。時熈は将軍義教時代、大病を病み抜いて元気となり、重臣最長老として活動した。永享三年(一四三一)に持熈が義教の勘気に触れて失脚したのもむしろ幸いだったし、翌四年には周防大内氏の内訌を威圧するため安芸・石見守護、同五年には伊賀守護に任ぜられた。五ヶ国持ちの大名となった。
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 +当代、三管四職の重臣家には正月に将軍御成りが恒例となるし、重臣らは将軍家に参賀、歌会や茶・能楽の会に参仕、また将軍家の社寺詣や諸家御成りに陪する。時熈は和漢の教養に秀れた。とくに教学を禪僧から授かったのが文化教養人として知られるゆえんである。これらに関しては別項に述べる。なお、永享四年(三号船)・六年(四号船)には遣明船を授かっている。貿易品としては、但馬で銅が産出、これを備後で積みこんだのが知られるが、なお硫黄その他を買いこんで彼地に送り、そして唐物を獲得するのである。もちろん、時熈が富裕だったことだし、これでまた富裕倍増といったかたちである。この購入硫黄の件で、官物横流しの疑惑が時熈にかかった。時熈は老衰ということで出頭を避けたり、結局は有耶夢耶にすることに成功した。さすがの将軍義教も比叡山僧兵弾圧などに山名氏の武力がほしかったので糺明は避けたらしい。同七年に時艱は六九才で病没する。これは悲運を見ずに終わったことになり、幸いだったといえる。持豊が家督、これに持熈が反抗するが大事にはいたらない。重ねがさね幸運だった。
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 +**文化人大名山名時熈 [#b2642138]
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