5: 2009-07-24 (金) 10:45:10 admin ソース 6: 2009-07-25 (土) 18:04:44 admin ソース
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山名軍は力戦よく赤松軍を攻めて瀬戸内まで攻めこみ城(き)山城.(木(き)山城)を包囲した。満祐は万策つきて城を枕に自殺、放火した。乱を起してから三か月、山名持豊軍の全面的勝利であった。 山名軍は力戦よく赤松軍を攻めて瀬戸内まで攻めこみ城(き)山城.(木(き)山城)を包囲した。満祐は万策つきて城を枕に自殺、放火した。乱を起してから三か月、山名持豊軍の全面的勝利であった。
-満祐は国人層を確かと味方に付けることなく戦いに+満祐は国人層を確かと味方に付けることなく戦いに臨んだが、その協ガを得ることが出来なかったのが敗因であったと考えられる。 
 +京都に凱旋した持豊は、満祐討伐の第一功労者として赤松の旧領のほとんど大部分を手に入れて「播磨守護」となり、播磨・備前・美作三か国の赤松氏遺領を受け継ぎ、山名一族の領国は、但馬・因幡・但者・石見.美作・備後・備前・播磨・安芸・伊賀の十か国となり、持豊自身もこの中の八か国を分有した。 
 +かっての明徳の乱で失った勢力の大部分を回復したのである。 
 +この時、持豊三十八歳。得意の絶頂であったであろう。 
 +持豊が一応播磨の乱を平げその武勇に反抗するものがないことを示しはしたが、持豊への恐れをいだいている人たちは、何としてもその勢力を削減しょうとする。それには、山名氏によって滅亡させられた「赤松氏再興問題」を利用しようと考える。その再興の地はどうしても故地である播磨において起きることになる。 
 +こうして「反山名運動」は「赤松再興問題」であり、三回に及んでいるとされる。 
 +特に「第三次赤松再興計画」は、「細川勝元」の指図によるものとして、山名持豊をしてひどく怒らせている。 
 + 
 +**応仁の乱と山名氏 [#z5c13128] 
 +東洋史の泰斗、内藤湖南氏 
 +「近代日本を理解するには、応仁の乱以降の歴史を知らなければならない」とされたが、「朝日百科・日本の歴史」の所載による、横浜市大助教授・今谷明氏の研究によると次のように発表されている。 
 +「日本史を真っ二つに割るほどの重大な画期に位置する応仁の乱」とは、一体どのような内乱であったのだろうか。 
 +数ある内乱のうちでこの乱ほど目的・意図がはっきりしないわかりにくい内乱も珍しい。NHKのテレビドラマなどでも応仁の乱が題材になったこと 
 +は先ずない。と言われてみるとなるほどその通りだと思う。 
 +人気のない内乱ということであろう。 
 +内乱にけ高い理念がない。将軍義政は酒宴に明け暮れしている。英雄と悲劇の主人公も表われない。 
 +不人気の内乱に対して、今谷助教授は種々考察されているが、その成果をふまえて簡単にまとめてみる。 
 +山名氏は「嘉吉の乱(前述)」の手がらによって、播磨・備前・美作三か国の赤松氏の遺領を継ぎ、これまでの但馬・因幡・伯耆・備後・安芸を加えで八か国の分国を持つ有力守護となった。 
 +対する細川氏も、摂津・和泉・丹波・備中さらには、淡路・讃岐・・阿波・土佐の八か国を所有する守護となり、この両守護家が瀬戸内海の制海権を両分する形で対立することになっていった。 
 +やがては、幕政の主導権を握るのは、山名宗全か細川勝元かという状態になって行くのは当然の成り行きであった。 
 +以上が、乱勃発までの幕政の背景である。 
 +このように政情は混乱し、山名・細川が対立していったことが乱の誘因となったが、「直接的原因は、畠山持国が一四四九年(宝徳元年)管領と山城国守護とを兼ねる」ようになり、二十年近く畠山氏が世襲した。 
 +しかし、持国の死後は後を継いだ実子「義就」と猶子(養子のこと)政長との内訌(うちわもめ)が激しくなっていった。 
 + 
 +&ref(ID$nbca0587); P29系図 
 + 
 +「畠山義就」は東軍の「赤松政則」と並称される豪勇の将であり名将であった。持国の妾腹であったことがわざわいをして政長がかつぎ出された。


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