4: 2009-07-22 (水) 23:33:57 admin ソース 5: 2009-07-24 (金) 10:45:10 admin ソース
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結果的には山名時熈がわの勝利とはなったが、一族が相争ったため、時義の時代には、十一か国を占め「六分一殿」(ろくぶのいちどの)と言われていた強大な山名の勢力も落ち目となった。 結果的には山名時熈がわの勝利とはなったが、一族が相争ったため、時義の時代には、十一か国を占め「六分一殿」(ろくぶのいちどの)と言われていた強大な山名の勢力も落ち目となった。
ここにおいて、将軍義満の考えた山名同族を戦わせて勢力を削減し、終局的には「足利を固める」という作戦は、ある程度成功したといえよう。 ここにおいて、将軍義満の考えた山名同族を戦わせて勢力を削減し、終局的には「足利を固める」という作戦は、ある程度成功したといえよう。
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 +**足利時代のヒーロー山名持豊(宗全)と領国の但馬 [#q20e016d]
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 +時熈が死去するとその後継者は「持熈」であった。
 +ところが時の将軍「義教」は陰険な性格であったらしく、持熈が幕府への出仕を怠ったとして弟の「持豊」を立てた。
 +時熈の死によって、持熈と持豊との兄弟争いがあることは当然予想された。
 +持豊が父の時熈の三回忌を京都でとり行った直後、持熈は反乱を起こしたが、弟の持豊に滅ぼされてしまった。持豊は、ここにおいて山名宗家の主となった。
 +山名宗全その人である。一四三三年(永享五年)三十歳の働き盛りであった。
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 +豊岡市史によると、山名持豊(宗全)が領国の但馬に下向したのは、記録の上では三回あるとしている。
 +そしてすべてが「播磨出兵」に関係していた。
 +第一は、「嘉吉の乱」に際して、播磨の赤松満祐を背後の但馬から突こうとして一四四一年(嘉吉元年)七月、京都から但馬へ下向したときである。京都を経て但馬生野より播磨に入り赤松満祐を討っている。
 +第二は、一四四四年(文安元年)十一月、先の嘉吉の乱の論功行賞に不満を持ち、赤松満政を攻撃しようとして再び但馬に入った。
 +生野の真弓峠から播磨に討ち入り、目的を達して文定二年六月京都に凱旋している。
 +第三は、一四五四年(享徳三年)に播磨の赤松再興問題に関連して、将軍・義政の怒りを買い、但馬に在国して上洛するなとの追放令を受け、十二月六日に但馬に行き、一四五八年(長禄二年)まで「四年間但馬にいた」ことである。
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 +持豊は嫡子の教豊に家督をゆずって隠居し、代りに持豊の子、教豊・是豊・勝豊そして孫の政豊が京都に出仕している。
 +この在国中に持豊・教豊らは、播磨国に攻め入り「赤松則尚」を討っている。
 +右に見るように、持豊が低馬に下国したのはすべて播磨の赤松氏のことに原因している。
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 +山名氏はかって播磨国を所持していたが、「明徳の乱」で播磨を失ってから「播磨国回復」は山名の悲願であった。気候温暖で地味の肥えた播磨国は、領主にとって何としても魅力であった。
 +但馬に下った時の持豊の居所は、戦時においては此隅山城であり、平時には「豊岡・九日市」の居館を守護の在所としていた。
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 +**此隅城跡(出石町宮内) [#j66d250d]
 +山名時義は、「此隅山」に築城した.写真で見るごとく高い山ではないが、戦略的に見て絶好の場所。
 +後山名宗全はこの城を戦時の拠点とした。
 +此隅山の頂上には、やや広い削平地があり、東がわには階段状の削平地が残っている。
 +石垣はなく土塁の城であったのだろう。中世の山城としては貧弱である。「六分一段」の山名氏の城としても小規模すぎると言える。
 +|&ref(ID$a7a574db,mw:240);P25-1|&ref(ID$dd394691,mw:240);P25-2|
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 +**広報「とよおか」-こぼれ話より [#d01486c7]
 +***山名宗全のまち。豊岡・九日市。 [#z25a42b8]
 +豊岡と言わず足利時代史のヒーローは、いうまでも・なく「山名宗全」である。
 +幕府の重職として、日ごろは京都にいた宗全であるが、主として播州の赤松氏と争って軍勢をもよおすときや、将軍義教を殺し(嘉吉の変)宗全との戦いに敗れた赤松氏が、ふたたび復活しょうとした時、将軍義政をののしり但馬に退去させられた四年間は、但馬山名氏の在所である豊岡・九日市に在住していたのである。このことからすると、豊岡こそが「山名宗全のまち」なのである。
 +但馬山名氏が在所を出石(此隅城・有子山城)に移したのは、史料から言って但馬山名氏後半のことである。
 +宗全は応仁の乱の一方の将として知られているが、一四七三年(文明五年)の死の前年には色いろの風評が立つなど乱の終結には心を痛めている。
 +三月十八日、七〇歳での死は
 +「東寺執行日記」「大乗院寺社雑事記」「実暁記」「見聞雑記」「鎌倉大日記」「和漢合符」「応仁記」「大乗院日記目録」
 +などが取り上げているが、歴史上の人物の死が、これほど多くの史料に報じられているのは、他に例を見ないほどである。
 +宗全が、いかに重要人物であったのか、しかも、応仁の乱中という時期もあってのことと思われる。
 +(右は、豊岡市史編集委員・山口久喜氏の書かれた「市史こぼれ話」の署名入りの文中から取材させてもらった。)
 +
 +**嘉吉の乱と山名持豊 [#r485bc49]
 +国内支配を強化するため守護大名を助けた幕府も、
 +大名の勢力があまりに強くなり過ぎて力の均衡が失なわれそうになると、それを防ぐための方途を実行した。
 +六代将軍「足利義教」は気性の激しい人で「悪将軍」と言われ、有能な武士九十名を処罰して「万人恐怖」とも称せられた将軍であった。
 +強い断圧に対しては、より強い反作用があることは歴史の示すところである。
 +
 +守護大名「赤松満祐」も播磨国を奪われる心配をかねてから抱いていた.一四四一年、嘉吉元年六月二十四日、こともあろうに赤松満祐邸で酒宴たけなわの時、かねてからこのことをたくらんでいた満祐の指図により、部下数人の手によってあっけなくも将軍義教はその場に斬り殺されたのであった。
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 +クジ引きに当って将軍になったと言われていた「クジ将軍」の末路である。
 +
 +赤松氏の分国、備前・播磨・美作の国はもと山名の分国であったが、明徳の乱で失ってしまった。「山名」ししむと「赤松-は、侍所四職のそれぞれ(山名・赤松・一色・京極)として対抗意識が強かった。
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 +将軍義教殺害事件は、あまりにも突然のことで幕府方は為すすべを見うしない討手も出さずぼう然たるありさまであった。侍所の山名持豊に追討の命が出されたのは事件の役、十数月も経ってからであった。
 +持豊は山陰道の総大将として赤松満祐軍を攻撃した。赤松軍は生野峠付近を陣地として構え、山名軍もまた丹波から朝来郡に攻め来り生野峠を中心に攻防戦を展開した。
 +朝来の地は時熈以来、山名にとってなじみが深い。
 +山名軍は力戦よく赤松軍を攻めて瀬戸内まで攻めこみ城(き)山城.(木(き)山城)を包囲した。満祐は万策つきて城を枕に自殺、放火した。乱を起してから三か月、山名持豊軍の全面的勝利であった。
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 +満祐は国人層を確かと味方に付けることなく戦いに
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