その強大な勢力が為に足利将軍を始め周囲から恐れられ、一族内での対立を謀られたり、応仁の乱に引き込まれたりと・・・やがてその権勢も徐々に弱まり、戦国の時代になると、所領する国も但馬・因幡等となりました。
豊臣秀吉の但馬征伐で出石に本拠を置いた但馬山名氏は滅亡し、因幡山名氏の最後の当主、山名豊国(禅高)は家臣の反対を押し切り、秀吉の前に屈して、辛うじて山名の名を残すことが出来ました。
江戸時代に入り、徳川の世となると、豊国は但馬国七美(ひつみ)郷の6500石を安堵され、村岡山名として再出発をし、交替寄り合い衆として幕末まで徳川幕府に十数代に渡り仕えました。
当法雲寺は村岡山名第三代矩豊公が藩都を村岡に移した際に在郷の禅院(妙心寺末「報恩寺」:詳細は不明)を街の中心に据え、鎌倉以来の歴代当主の位牌を祀り、山名氏の総菩提所と定めた事に由来します。
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