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寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号/赤松軍と山名軍の合戦史
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#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)
* 赤松軍と山名軍の合戦史
RIGHT:''宮田靖國''
CENTER:小見出しは編集の都合上、付加したページ番号です。
#clear
**神南(こうない)合戦
赤松軍と山名軍が対立した嚆矢は、おそらく観応の擾乱(じょ...
「一陣二陣忽(たちまち)に攻破られて、山名彌(いよいよ)...
此に四目結の旗は道誉にてぞ有らん。是天の与たる処の幸也。
自余の敵に目な懸そ。あの頸敢て我に見せよ』と歯嚼(はが)...
と、あって、両軍、ここを先途と戦い、血河屍山を築くのであ...
しかし、この文面から明らかな如く、お互いの遺恨によって戦...
**美作国攻防戦
かくて、神南合戦に山名は一敗地にまみれた。ついで赤松氏と...
「太平記」第三十六巻には、
「斯(かか)る処に、七月十二日山名伊豆守時氏、嫡子右衛門...
に始まり、
「赤松筑前入道世貞、舎弟律師則祐、其弟弾正少弼氏範、、大...
-中略-
去程に倉懸の城には人多くして兵粮少なかりけば、戦う度に軍...
と、あって、山名の勝利に終った。
**明徳の乱
つぎの合戦は明徳二(一三九一)年十二月三十日の明徳の乱で...
「赤松上総介義則一千三百余騎。二條猪熊、松文字書きたる大...
山名中務大輔(注、氏家)五百余騎、早々猪熊を上に押寄て、...
むざんと云もおろか也。
されば上総介の兵は舎弟左馬助を始めとして、佐用、柏原、宇...
前代未聞の風情也。山名奥州、中務大輔両人の兵共入替入替揉...
CENTER:-中略-
かかりける処に、赤松の上総介義則は一足も退ぞかず、二条猪...
此陣を破られて後日、人に嘲られんぱ義則が不覚にて有べし。
義則においては討死するぞ。
左様に契らん人々よ、返せ返せと呼ければ、有野、喜多野、浦...
さこそ赤松上総介の兵は山名勢に打負て、引たりけるとは沙汰...
と、あるから、まあ、引分けと言う処か。
**嘉吉の乱
次は悲劇の嘉吉の乱(一四四一)である。周知の事なれば、簡...
「赤松は定て諸大名寄せ来らん、一合戦して腹を切らんと待け...
播磨へ下り、城山白旙の城を拵て、討手の下向を待つ可しと、...
其心操驪龍頷下の玉をも奪はんほどの機分なれば、なじかは少...
大山口より國中へ切で入る。城の向い西福寺の上にはしさき河...
修理大夫、相模守、因幡伯耆勢を率し、搦手へ廻りければ、金...
十重廿重に取巻き、日夜息をも継ず攻入。壁櫓引破り城中あば...
城中兵人に知られるほどの者は腹を切る其数を知らず。子息彦...
これを「嘉吉物語」で補足すると、
「扨も赤松殿は、御曹子のおち給いし時、その御うしろかげを...
そののち安積をめされて、城のうちの体は、いかように有ぞと...
いまは御はらめされ候べしと申ければ、入道殿さては心得たり...
さて又やわた山のかたを礼し給いて、南無八幡大菩薩、入道に...
よせ手の中に、大剛のつわもの我とおもわん人あらば、いざや...
安積がもちたるなぎなたの石づきの上、三寸ばかりを射とおし...
本より安積は一騎当千の兵なれば、四かく八ぽう、八はなかた...
去程に影安、いせんあたや射つる事を無念におもいければ、安...
安積にっこりとわらい、我等もさこそ存ずれば、いざや勝負を...
安積心におもうよう。
いぜん影安がいたりし矢に当りなば、さこそ口惜かるべきを、...
きっさきほそ首に当りて、廿七歳と申すには、安積が手にかか...
弟の平三影光、兄をうたせて口惜しく思いければ、安積にきっ...
安積にっことわらい、あらやさしの彩光や、侍のならいとて、...
さりながら、手にたるまじき事のむざんよ。
おなじくは命をながらえて、兄の後生をとむらい給えかしとい...
さる程に、安積は本の城にかえりて、御かたの勢をあつめける...
我々事は、入道殿のさだめで死出の山三途の川にてまち給えけ...
其うえ弓矢の家に生まれぬれば、いつも殺生をのみ事とせり。...
しかれども、大剛のものなれば、いまだ死なず。又本の城へか...
**赤松家再興戦
かくて、持豊は播磨国を、修理大夫は美作国を、相模守は備前...
「赤松彦次郎祐之、同彦五郎則尚、播磨へ打入、国人を語らい...
持豊これを聞て、五月の初播磨に往て普當山に陣を取り、檀特...
其心室山に子息弾正忠政豊籠しを彦次郎急に攻て難儀の由を聞...
室山の寄手、持豊が威風におそれ、責口を引退き持豊と戦はん...
持豊は両敵の間にはさまれば、手痛き合戦あらんと思ひしに、...
室山の寄手くずれたる由を檀特山に籠る軍兵共聞て、我先にと...
彦五郎は備前のカクイ嶋にて自害し、彦次郎は伊勢国司北畠殿...
しかし、この抗争は応仁の乱の一因にもなり、決着は乱中に一...
「同六月八目一条大宮猪熊の間にて、山名相摸守ひかえたりけ...
中にも依藤豊後守弓手(ゆんで)の瞼を射られ、其矢折かけて...
古の鎌倉権五郎景正にも劣らぬ高名哉とぞ各褒美せられける。...
引組で上に成下に成しが、明石組勝て片山が頸を取て立挙る処...
**P57
その後、赤松氏は播磨へ下った。山名の家人被官は上洛して留...
「さても美作國事。山名掃部頭ふまえて有しかども、大内新介...
と、ある。
**文明の乱
さて、応仁の乱終って後、山名政豊は播磨、美作、備前を取ら...
「山名右衛門督政豊、三方国を召放され、赤松に返し被下事を...
**P58
文明十五年九月廿六日置、山名又次郎俊豊、備後の尾道を打立...
斯て山名又次郎俊豊、備前国着陣の日より、但馬國におわする...
**P59
に、是は上意ならず、山名又次郎俊豊、備前国に乱入の上は、...
と、あって播但の戦いは終ったが、備前国吉井川にある川中島...
**P60
「加様に爰を先途と戦えども、山名は彌跡より続きて、引かば...
**P61
て内山を射る。草摺の胴付をヅバと通しければ、漸取除けるが...
とあるが結局、赤松勢は福岡城を開城し、備前を去った。以下...
「その後赤松政則と浦上則宗が対立し、その内訌の間に、山名...
ところが、やがて赤松と浦上は和解して、文明十六年(一四八...
この蔭木城の戦いに、赤松は六千、山名は三万の大軍であった...
と、ある。つづいて、
翌十八年正月六日の英賀の戦いには、塩屋越中宅、同孫右衛門...
**播磨国攻防戦
その後、山名政豊の後を継いだ致豊の時代は何事もなかったが...
播磨では浦上村国と浦上村宗が抗争していた。好機到来と、但...
しかし、村国は村宗に一時休戦を申し入れて和睦すると、外敵...
播磨守護となって置塩城に入り、一致協力して山名誠豊に当た...
翌大永三年(一五二三)十月、書写山にこもる浦上に対し総攻...
山名誠豊の後嗣祐豊の代はいよいよ戦国に入り、山名氏も御多...
この時、即ち天正元年、龍野城主赤松広秀が来攻し、激しい攻...
以上で軍記物に出ている両氏の合戦を抜粋しましたが、元来浅...
*両軍の合戦一覧
以上を箇条書きに列挙すると次のようになります。
|=乱又は合戦名|=年月日|=場所|h
|=神南合戦&br;山名師氏&br;対&br;赤松則祐|(文和四年)(一...
|=美作国攻防戦&br;山名時氏&br;対&br;赤松世貞|正平十六年(...
|=明徳の乱&br;山名氏清&br;対&br;赤松義則|元中八年(明徳二...
|=嘉吉の乱&br;山名持豊&br;対&br;赤松満祐|嘉吉元年(一四四...
|=赤松家再興戦&br;山名持豊&br;対&br;赤松則尚|享徳四年(一...
|=応仁の乱&br;山名持豊&br;対&br;赤松政則|応仁元年(一四六...
|=文明の乱&br;山名政豊&br;対&br;赤松政則|文明十五年(一四...
|=播磨国攻防戦&br;山名誠豊(しげとよ)&br;対&br;赤松政村|...
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* 赤松軍と山名軍の合戦史
RIGHT:''宮田靖國''
CENTER:小見出しは編集の都合上、付加したページ番号です。
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**神南(こうない)合戦
赤松軍と山名軍が対立した嚆矢は、おそらく観応の擾乱(じょ...
「一陣二陣忽(たちまち)に攻破られて、山名彌(いよいよ)...
此に四目結の旗は道誉にてぞ有らん。是天の与たる処の幸也。
自余の敵に目な懸そ。あの頸敢て我に見せよ』と歯嚼(はが)...
と、あって、両軍、ここを先途と戦い、血河屍山を築くのであ...
しかし、この文面から明らかな如く、お互いの遺恨によって戦...
**美作国攻防戦
かくて、神南合戦に山名は一敗地にまみれた。ついで赤松氏と...
「太平記」第三十六巻には、
「斯(かか)る処に、七月十二日山名伊豆守時氏、嫡子右衛門...
に始まり、
「赤松筑前入道世貞、舎弟律師則祐、其弟弾正少弼氏範、、大...
-中略-
去程に倉懸の城には人多くして兵粮少なかりけば、戦う度に軍...
と、あって、山名の勝利に終った。
**明徳の乱
つぎの合戦は明徳二(一三九一)年十二月三十日の明徳の乱で...
「赤松上総介義則一千三百余騎。二條猪熊、松文字書きたる大...
山名中務大輔(注、氏家)五百余騎、早々猪熊を上に押寄て、...
むざんと云もおろか也。
されば上総介の兵は舎弟左馬助を始めとして、佐用、柏原、宇...
前代未聞の風情也。山名奥州、中務大輔両人の兵共入替入替揉...
CENTER:-中略-
かかりける処に、赤松の上総介義則は一足も退ぞかず、二条猪...
此陣を破られて後日、人に嘲られんぱ義則が不覚にて有べし。
義則においては討死するぞ。
左様に契らん人々よ、返せ返せと呼ければ、有野、喜多野、浦...
さこそ赤松上総介の兵は山名勢に打負て、引たりけるとは沙汰...
と、あるから、まあ、引分けと言う処か。
**嘉吉の乱
次は悲劇の嘉吉の乱(一四四一)である。周知の事なれば、簡...
「赤松は定て諸大名寄せ来らん、一合戦して腹を切らんと待け...
播磨へ下り、城山白旙の城を拵て、討手の下向を待つ可しと、...
其心操驪龍頷下の玉をも奪はんほどの機分なれば、なじかは少...
大山口より國中へ切で入る。城の向い西福寺の上にはしさき河...
修理大夫、相模守、因幡伯耆勢を率し、搦手へ廻りければ、金...
十重廿重に取巻き、日夜息をも継ず攻入。壁櫓引破り城中あば...
城中兵人に知られるほどの者は腹を切る其数を知らず。子息彦...
これを「嘉吉物語」で補足すると、
「扨も赤松殿は、御曹子のおち給いし時、その御うしろかげを...
そののち安積をめされて、城のうちの体は、いかように有ぞと...
いまは御はらめされ候べしと申ければ、入道殿さては心得たり...
さて又やわた山のかたを礼し給いて、南無八幡大菩薩、入道に...
よせ手の中に、大剛のつわもの我とおもわん人あらば、いざや...
安積がもちたるなぎなたの石づきの上、三寸ばかりを射とおし...
本より安積は一騎当千の兵なれば、四かく八ぽう、八はなかた...
去程に影安、いせんあたや射つる事を無念におもいければ、安...
安積にっこりとわらい、我等もさこそ存ずれば、いざや勝負を...
安積心におもうよう。
いぜん影安がいたりし矢に当りなば、さこそ口惜かるべきを、...
きっさきほそ首に当りて、廿七歳と申すには、安積が手にかか...
弟の平三影光、兄をうたせて口惜しく思いければ、安積にきっ...
安積にっことわらい、あらやさしの彩光や、侍のならいとて、...
さりながら、手にたるまじき事のむざんよ。
おなじくは命をながらえて、兄の後生をとむらい給えかしとい...
さる程に、安積は本の城にかえりて、御かたの勢をあつめける...
我々事は、入道殿のさだめで死出の山三途の川にてまち給えけ...
其うえ弓矢の家に生まれぬれば、いつも殺生をのみ事とせり。...
しかれども、大剛のものなれば、いまだ死なず。又本の城へか...
**赤松家再興戦
かくて、持豊は播磨国を、修理大夫は美作国を、相模守は備前...
「赤松彦次郎祐之、同彦五郎則尚、播磨へ打入、国人を語らい...
持豊これを聞て、五月の初播磨に往て普當山に陣を取り、檀特...
其心室山に子息弾正忠政豊籠しを彦次郎急に攻て難儀の由を聞...
室山の寄手、持豊が威風におそれ、責口を引退き持豊と戦はん...
持豊は両敵の間にはさまれば、手痛き合戦あらんと思ひしに、...
室山の寄手くずれたる由を檀特山に籠る軍兵共聞て、我先にと...
彦五郎は備前のカクイ嶋にて自害し、彦次郎は伊勢国司北畠殿...
しかし、この抗争は応仁の乱の一因にもなり、決着は乱中に一...
「同六月八目一条大宮猪熊の間にて、山名相摸守ひかえたりけ...
中にも依藤豊後守弓手(ゆんで)の瞼を射られ、其矢折かけて...
古の鎌倉権五郎景正にも劣らぬ高名哉とぞ各褒美せられける。...
引組で上に成下に成しが、明石組勝て片山が頸を取て立挙る処...
**P57
その後、赤松氏は播磨へ下った。山名の家人被官は上洛して留...
「さても美作國事。山名掃部頭ふまえて有しかども、大内新介...
と、ある。
**文明の乱
さて、応仁の乱終って後、山名政豊は播磨、美作、備前を取ら...
「山名右衛門督政豊、三方国を召放され、赤松に返し被下事を...
**P58
文明十五年九月廿六日置、山名又次郎俊豊、備後の尾道を打立...
斯て山名又次郎俊豊、備前国着陣の日より、但馬國におわする...
**P59
に、是は上意ならず、山名又次郎俊豊、備前国に乱入の上は、...
と、あって播但の戦いは終ったが、備前国吉井川にある川中島...
**P60
「加様に爰を先途と戦えども、山名は彌跡より続きて、引かば...
**P61
て内山を射る。草摺の胴付をヅバと通しければ、漸取除けるが...
とあるが結局、赤松勢は福岡城を開城し、備前を去った。以下...
「その後赤松政則と浦上則宗が対立し、その内訌の間に、山名...
ところが、やがて赤松と浦上は和解して、文明十六年(一四八...
この蔭木城の戦いに、赤松は六千、山名は三万の大軍であった...
と、ある。つづいて、
翌十八年正月六日の英賀の戦いには、塩屋越中宅、同孫右衛門...
**播磨国攻防戦
その後、山名政豊の後を継いだ致豊の時代は何事もなかったが...
播磨では浦上村国と浦上村宗が抗争していた。好機到来と、但...
しかし、村国は村宗に一時休戦を申し入れて和睦すると、外敵...
播磨守護となって置塩城に入り、一致協力して山名誠豊に当た...
翌大永三年(一五二三)十月、書写山にこもる浦上に対し総攻...
山名誠豊の後嗣祐豊の代はいよいよ戦国に入り、山名氏も御多...
この時、即ち天正元年、龍野城主赤松広秀が来攻し、激しい攻...
以上で軍記物に出ている両氏の合戦を抜粋しましたが、元来浅...
*両軍の合戦一覧
以上を箇条書きに列挙すると次のようになります。
|=乱又は合戦名|=年月日|=場所|h
|=神南合戦&br;山名師氏&br;対&br;赤松則祐|(文和四年)(一...
|=美作国攻防戦&br;山名時氏&br;対&br;赤松世貞|正平十六年(...
|=明徳の乱&br;山名氏清&br;対&br;赤松義則|元中八年(明徳二...
|=嘉吉の乱&br;山名持豊&br;対&br;赤松満祐|嘉吉元年(一四四...
|=赤松家再興戦&br;山名持豊&br;対&br;赤松則尚|享徳四年(一...
|=応仁の乱&br;山名持豊&br;対&br;赤松政則|応仁元年(一四六...
|=文明の乱&br;山名政豊&br;対&br;赤松政則|文明十五年(一四...
|=播磨国攻防戦&br;山名誠豊(しげとよ)&br;対&br;赤松政村|...
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