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寺報・書籍/山名/1号/山名氏四代の栄光
をテンプレートにして作成 ::
東林山法雲寺のホームページ
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:寺報・書籍/山名/1号/山名氏四代の栄光 をテンプレートにして作成
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#navi
''特別寄稿''
* 山名氏四代の栄光
RIGHT:''永島福太郎''
山名氏は十四世紀半ばから丹波から石見に至る山陰道に雄飛、...
但馬の歴史は、しばらく山名氏とともに歩んだし、近代但馬の...
** 山名氏の起こり
清和源氏の八幡太郎義家の三男の義国は下野足利郡内に土着し...
王政復古活動の元弘の乱(一三三一~三三)に新田・足利両氏...
** 六分一大名
王政復興の建武中興が破れ、南北朝動乱が始まった。足利尊氏...
義満は氏清を和泉、兄の義理を紀伊守護に充てる。これは南朝...
康応元年(一三八九)三月、将軍義満は嚴島詣を決行した。讃...
ちなみに、山名一族の領国は十一方国に達した。惣領氏清の威...
山名氏は時氏で世に出た。時氏は出世すると、将軍家の足利氏...
氏清が六分一殿といわれたのは、日本全国六十六が国のうち十...
**明徳の乱
明徳二年(一三九一)三月、管領斯波義将が引退、前管領の細...
同十月、氏清は将軍義満を宇治の別邸に招いた。紅葉狩の興だ...
氏清は敗軍、六分一大名山名氏が潰滅する。氏清が南朝に通謀...
**山名時熈の功業
山名時熈(一三六七~一四三五)は内野合戦に奮闘、但馬守護...
時熈は山名氏を再興するし、守護大名山名家永続の基礎を築い...
時熈は三管領家に次ぐ四職家として室町幕府の七頭政治の一員...
しかし、時熈は晩年、吉凶波瀾重畳の荒波にもまれた。黒衣宰...
当代、三管四職の重臣家には正月に将軍御成りが恒例となるし...
**文化人大名山名時熈
時無は応永四年(一三九七)に北山殿道義(足利義満)の春日...
大和は南都七大寺などの栄える旧仏教の王国、新仏教の進出は...
鎌倉末期、禪宗達磨寺が創建されたが、興福寺六方衆徒が断罪...
しかし、復興成就は永享元年(一四二九)のことであり、供養...
すでに先代の時氏も時義も、将軍家にならって禪院の創建に努...
但馬守護の時義は、先代の貞治六年(一三六七)に但馬黒川に...
時義は円通寺殿と諡せられ、竹野の円通寺に葬られたが、同寺...
さて時熈は幼にして和尚に参叩した。しばらくで和尚は寂した...
なお、時熈の禪院振興の一つとして特記すべきは楞嚴寺の拡充...
同寺は権中納言平宗經家の出身で禪僧となった南溟昌運が延文...
これに從三位楊梅親行が因幡服部庄領家職を寄進、但馬久斗庄...
ところで時艱は楞嚴寺の環境を愛好した。公卿出身の南溟和尚...
ところで、時熈は禪院のみならず、社寺の崇信も厚く、一宮出...
禪宗は新渡来文化だし、官仏教だったから摂取に努めたため、...
なお、将軍家や大小名らの社交に連歌会や茶会が盛んになった...
遊吟の連歌師の草分けとして高山宗砌(そうぜい)が有名だが...
時熈は屈指の大名歌人である。なお、時熈は茶数寄(茶器愛玩...
茶湯は和漢文化兼帯の東山文化の華として発祥するが、その胎...
時熈は文武兼帯の将といわれる。とくに文化人大名というにふ...
**山名宗全の驍勇
持豊(一四〇四~七三)が亡父の遺領を独占したことにたいし...
義教は武断政治の報いで嘉吉元年(一四四一)六月に赤松満祐...
八月末に但馬から播州に入り九月十日に満祐を討伐した。論功...
反満祐の赤松満政に将軍家料所の東播磨三郡、征伐軍大将の細...
山名持豊一族の領国は十方国に達する。この嘉吉の乱から管領...
なお、斯波氏は守護代らの下剋上で勢力失墜、細川・畠山両氏...
山名持豊は念願の播磨に進出、山陽道も抑えることとなった。...
細川氏は将軍家権威の高揚のため、諸大名の制圧、おりから吉...
持豊は勝元を女婿としたためこれに協力したが、細川氏の政治...
相続爭いに細川氏が介入していたのは明かだが管領の勝元は処...
但馬に隠居の処分でおさめた。勝元には美談だが宗全は不満で...
なお、細川氏には赤松氏残党の主家復興の嘆願に同情を寄せた...
細川氏の介入する畠山両家の抗爭は、河内・大和では合戦、帝...
宗全は赦免を待たず上洛したが、やがて将軍家に出仕している...
嫡子の教豊を本国に追い下している。さきの宗全の処罸以来、...
宗全には赤入道のニックネームが呈された。一休和尚もこれを...
父の時熈とはちがい、直情徑行の性といえよう。宝徳二年(一...
宗全は管領家と所司家(四職家)の格差にもようやく気づいた...
大相撲の横綱と大関とは同格だが、栄誉に差があり、なお降格...
さきに細川勝元を婿にしたが、なお管領家を扼するため、斯波...
貞親の執拗な謀略に耐えかねた宗全は、文正元年(一四六六)...
貞親は宗全を振り切るため、将軍家家督を待ちわびる足利義視...
義視を細川勝元が後見しているが、すでに義政には実子の義尚...
宗全の蹶起にたいし、貞親らが逃亡したため武力行使にはいた...
勝元のロボット的管領の畠山政長など周章狼狽(ろうばい)す...
このおり、宗全は兵力増強のため、河内で善戦している畠山義...
宗全は側近勢力の僧俗が大名の更迭などをさかんにするのを憤...
将軍家家督の義視の後見人でありながら、側近勢力を慮ってこ...
しかし、勝元は義父の宗全に刃向うことはしない。そこで、宗...
勝元が非力の政長を支援、戦場に出るのは必定と考えたのであ...
**応仁の乱
文正二年(一四六七)正月、元旦の儀式に管領政長は参仕した...
正月十八日拂曉、上御靈の森に陣取った政長軍を義就軍が攻撃...
将軍家とつねに共にあることで細川氏は利を得た。将軍家と遮...
乱の仕返しができた喜びもある。急を聞いて上洛した諸国兵も...
これにたいし、細川一族は雪辱の期を狙った。赤松政則はふる...
月末に宗全軍八万が到来した。四万は丹波に残したともいわれ...
翌二年、出奔の義視が帰京するが、義尚擁立の伊勢貞親が参仕...
両軍の合戦は一進一退、いわゆる泥沼合戦となった。補給など...
将軍義政が酒色に明け暮れ、禁裏は念仏生活だという識者の慨...
翌五年三月、前年の自刃の後遺症も作用してか宗全は病死した...
大将の共倒れで、両軍は解体すべきものだが、東軍の細川一族...
ちなみに、義視が将軍に奉戴されて以来、大将宗全の権威が動...
**山名氏の余光
宗全の名跡を継いだ政豊は、山陽道における宿敵赤松氏の脅威...
翌六年、講和機運が高まり、山名政豊がまず細川改元と講和し...
なお、山名氏としては播磨を領有したい。ところが、赤松政則...
山名政豊はしばしば播磨に進撃した。敗北に終わるので、家臣...
政豊は晩年、俊豊と戦ってこれを敗死せしめた。三男の致豊が...
山名氏は時氏・氏清・時熈および宗全の四代が相次いで名声を...
*[付記]
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筆者は昭和43年に『応仁の乱』(日本歴史新書、至文堂発行)...
栃木県佐野市生まれ、奈良市在住。
※参考書『兵庫県史』・『同中世史料編』石田松蔵『但馬史』小...
|=&ref(P18-2.jpg,mh:320);|=&ref(P18-3.jpg,mh:320);|
|=西陣碑|=京都市上京区堀川通上立売下ル山名町|
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''特別寄稿''
* 山名氏四代の栄光
RIGHT:''永島福太郎''
山名氏は十四世紀半ばから丹波から石見に至る山陰道に雄飛、...
但馬の歴史は、しばらく山名氏とともに歩んだし、近代但馬の...
** 山名氏の起こり
清和源氏の八幡太郎義家の三男の義国は下野足利郡内に土着し...
王政復古活動の元弘の乱(一三三一~三三)に新田・足利両氏...
** 六分一大名
王政復興の建武中興が破れ、南北朝動乱が始まった。足利尊氏...
義満は氏清を和泉、兄の義理を紀伊守護に充てる。これは南朝...
康応元年(一三八九)三月、将軍義満は嚴島詣を決行した。讃...
ちなみに、山名一族の領国は十一方国に達した。惣領氏清の威...
山名氏は時氏で世に出た。時氏は出世すると、将軍家の足利氏...
氏清が六分一殿といわれたのは、日本全国六十六が国のうち十...
**明徳の乱
明徳二年(一三九一)三月、管領斯波義将が引退、前管領の細...
同十月、氏清は将軍義満を宇治の別邸に招いた。紅葉狩の興だ...
氏清は敗軍、六分一大名山名氏が潰滅する。氏清が南朝に通謀...
**山名時熈の功業
山名時熈(一三六七~一四三五)は内野合戦に奮闘、但馬守護...
時熈は山名氏を再興するし、守護大名山名家永続の基礎を築い...
時熈は三管領家に次ぐ四職家として室町幕府の七頭政治の一員...
しかし、時熈は晩年、吉凶波瀾重畳の荒波にもまれた。黒衣宰...
当代、三管四職の重臣家には正月に将軍御成りが恒例となるし...
**文化人大名山名時熈
時無は応永四年(一三九七)に北山殿道義(足利義満)の春日...
大和は南都七大寺などの栄える旧仏教の王国、新仏教の進出は...
鎌倉末期、禪宗達磨寺が創建されたが、興福寺六方衆徒が断罪...
しかし、復興成就は永享元年(一四二九)のことであり、供養...
すでに先代の時氏も時義も、将軍家にならって禪院の創建に努...
但馬守護の時義は、先代の貞治六年(一三六七)に但馬黒川に...
時義は円通寺殿と諡せられ、竹野の円通寺に葬られたが、同寺...
さて時熈は幼にして和尚に参叩した。しばらくで和尚は寂した...
なお、時熈の禪院振興の一つとして特記すべきは楞嚴寺の拡充...
同寺は権中納言平宗經家の出身で禪僧となった南溟昌運が延文...
これに從三位楊梅親行が因幡服部庄領家職を寄進、但馬久斗庄...
ところで時艱は楞嚴寺の環境を愛好した。公卿出身の南溟和尚...
ところで、時熈は禪院のみならず、社寺の崇信も厚く、一宮出...
禪宗は新渡来文化だし、官仏教だったから摂取に努めたため、...
なお、将軍家や大小名らの社交に連歌会や茶会が盛んになった...
遊吟の連歌師の草分けとして高山宗砌(そうぜい)が有名だが...
時熈は屈指の大名歌人である。なお、時熈は茶数寄(茶器愛玩...
茶湯は和漢文化兼帯の東山文化の華として発祥するが、その胎...
時熈は文武兼帯の将といわれる。とくに文化人大名というにふ...
**山名宗全の驍勇
持豊(一四〇四~七三)が亡父の遺領を独占したことにたいし...
義教は武断政治の報いで嘉吉元年(一四四一)六月に赤松満祐...
八月末に但馬から播州に入り九月十日に満祐を討伐した。論功...
反満祐の赤松満政に将軍家料所の東播磨三郡、征伐軍大将の細...
山名持豊一族の領国は十方国に達する。この嘉吉の乱から管領...
なお、斯波氏は守護代らの下剋上で勢力失墜、細川・畠山両氏...
山名持豊は念願の播磨に進出、山陽道も抑えることとなった。...
細川氏は将軍家権威の高揚のため、諸大名の制圧、おりから吉...
持豊は勝元を女婿としたためこれに協力したが、細川氏の政治...
相続爭いに細川氏が介入していたのは明かだが管領の勝元は処...
但馬に隠居の処分でおさめた。勝元には美談だが宗全は不満で...
なお、細川氏には赤松氏残党の主家復興の嘆願に同情を寄せた...
細川氏の介入する畠山両家の抗爭は、河内・大和では合戦、帝...
宗全は赦免を待たず上洛したが、やがて将軍家に出仕している...
嫡子の教豊を本国に追い下している。さきの宗全の処罸以来、...
宗全には赤入道のニックネームが呈された。一休和尚もこれを...
父の時熈とはちがい、直情徑行の性といえよう。宝徳二年(一...
宗全は管領家と所司家(四職家)の格差にもようやく気づいた...
大相撲の横綱と大関とは同格だが、栄誉に差があり、なお降格...
さきに細川勝元を婿にしたが、なお管領家を扼するため、斯波...
貞親の執拗な謀略に耐えかねた宗全は、文正元年(一四六六)...
貞親は宗全を振り切るため、将軍家家督を待ちわびる足利義視...
義視を細川勝元が後見しているが、すでに義政には実子の義尚...
宗全の蹶起にたいし、貞親らが逃亡したため武力行使にはいた...
勝元のロボット的管領の畠山政長など周章狼狽(ろうばい)す...
このおり、宗全は兵力増強のため、河内で善戦している畠山義...
宗全は側近勢力の僧俗が大名の更迭などをさかんにするのを憤...
将軍家家督の義視の後見人でありながら、側近勢力を慮ってこ...
しかし、勝元は義父の宗全に刃向うことはしない。そこで、宗...
勝元が非力の政長を支援、戦場に出るのは必定と考えたのであ...
**応仁の乱
文正二年(一四六七)正月、元旦の儀式に管領政長は参仕した...
正月十八日拂曉、上御靈の森に陣取った政長軍を義就軍が攻撃...
将軍家とつねに共にあることで細川氏は利を得た。将軍家と遮...
乱の仕返しができた喜びもある。急を聞いて上洛した諸国兵も...
これにたいし、細川一族は雪辱の期を狙った。赤松政則はふる...
月末に宗全軍八万が到来した。四万は丹波に残したともいわれ...
翌二年、出奔の義視が帰京するが、義尚擁立の伊勢貞親が参仕...
両軍の合戦は一進一退、いわゆる泥沼合戦となった。補給など...
将軍義政が酒色に明け暮れ、禁裏は念仏生活だという識者の慨...
翌五年三月、前年の自刃の後遺症も作用してか宗全は病死した...
大将の共倒れで、両軍は解体すべきものだが、東軍の細川一族...
ちなみに、義視が将軍に奉戴されて以来、大将宗全の権威が動...
**山名氏の余光
宗全の名跡を継いだ政豊は、山陽道における宿敵赤松氏の脅威...
翌六年、講和機運が高まり、山名政豊がまず細川改元と講和し...
なお、山名氏としては播磨を領有したい。ところが、赤松政則...
山名政豊はしばしば播磨に進撃した。敗北に終わるので、家臣...
政豊は晩年、俊豊と戦ってこれを敗死せしめた。三男の致豊が...
山名氏は時氏・氏清・時熈および宗全の四代が相次いで名声を...
*[付記]
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筆者は昭和43年に『応仁の乱』(日本歴史新書、至文堂発行)...
栃木県佐野市生まれ、奈良市在住。
※参考書『兵庫県史』・『同中世史料編』石田松蔵『但馬史』小...
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|=西陣碑|=京都市上京区堀川通上立売下ル山名町|
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