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寺報・書籍/山名/1号/山名常熈の嫡子満時について
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:寺報・書籍/山名/1号/山名常熈の嫡子満時について をテンプレートにして作成
開始行:
#navi
RIGHT:''小坂博之''
*はじめに
山名満時は明徳の乱で有名な山名時熈(常熈)の嫡子であり、...
*一、生年と没年
満時は応永三年つまり一三九六年の生れである。『康富記』応...
晴、今曉山名修理大夫満時被卒、此三年被違例、虚気夭シ病云々
二十五歳云々、親父金吾禅門愁歎無是非云々、哀也々々、性通...
この記事で満時の没年は応永二十七年(一四二〇)であること...
「又聞、山名右衛門佐入道嫡子死云々」
とあり、また『東海?華集』によると翌応永二十八年正月
二十一日に満時の小祥忌法要が南禅寺栖眞院で行われているか...
つまり山名満時の没年月日は応永二十七年閏一月二十一日であ...
満時の父は「親父金吾禅門」つまり「山名右衛門佐入道」であ...
満時の諱すなわち実名は室町幕府三代将軍足利義満の「満」の...
詩歌、書道、有職に通じた権大外記中原康富が「親父金吾禅門...
満時は二十三歳の頃から病気がちになり、三年の間、体調がす...
*二、満時の実績・官職
満時は応永二十一年(]四一四)三月十二日に室町幕府侍所に...
「侍所山名宮内少輔二被仰出云々」
とある。この侍所は室町幕府の最要職で三管領四職といわれた...
応永二十一年当時、但馬・備後守護山名常熈は健在で、常熈も...
満時は数え年十八歳で室町幕府の重職侍所頭人および山城守護...
|=&ref(P22_1.JPG,mw:320,mh:320);|
|=①侍所頭人山名満時書下(『古文書研究』第別号所収-東寺文...
| |=伊豫守|
|=&ref(P22_2.JPG,mw:320,mh:320);|=&ref(P22_3.JPG,mw:320,m...
|=②侍所頭人山名満時書下封紙宛書(『古文書研究』第別号所収...
写真の①と②は応永二十一年六月二十七日当時の「宮内少輔」が...
山名満時の官途については応永二十一年三月十二日当時、「宮...
満時は応永二十三年四月には伊豫守として近江山上永源寺含空...
『大日本史料』第七編之二十四、応永二十三年四月三日条の禁...
山上永源寺含空院領伊勢国久米守忠名
は将軍義持が「守護使不入之地」として含空院に安堵したもの...
満時が伊豫守を帯していたことがわかると、『看聞日記』応永...
聞、山名右衛門佐入道屋形室町殿詔(招)請申、快然之餘内々...
つまり常熈の子息伊豫守は将軍義持によって刑部大輔に
昇進し、父の金吾入道常熈も右衛門督に昇進していることがわ...
しかし『康富記」では同年の応永二十四年九月二十五日条に
「同今日室町殿山名金吾禅門許御成云々、同子息刑部少輔満時...
とし満時の官位を刑部少輔としている。満時は刑部少輔から宮...
満時の極官は修理大夫であった。このことは前述した「康富記...
「今曉修理大夫満時被卒」
とあることにより確認できる。
満時が刑部少輔に任官したのは『歴名土代』に
「応永二十年六月十一日、従五位下刑部少輔」
とあるのがそれと考えられる。
*三、満時の歴史的意義
室町幕府の大守護でありまた四職家の山名常熈の嫡子として生...
満時の跡は因幡守護山名熈高の子、山名熈成が継いだが、これ...
満時の死後山名常熈の後継者と目されたのは満時の弟刑部少輔...
父常熈は応永二十八年(一四二一)正月二十一日、南禅寺栖眞...
栖眞院殿欣叟大禅定門小祥忌香……応永二十有八年正月二十一日...
(「東海橘華集一」「五山文学新集」所収)
巨川つまり常熈は法華経を書写して満時を供養し、また満時の...
香語で惟肖は満時の人柄について次のとおり語っている。
満時は天性人にすぐれ、その立居振舞はなおざりでなくいやし...
栖眞院殿欣叟大禅定門とは山名満時の法号であるが、山名常熈...
満時の死に悼む常熈に和して惟肖は一句を呈したが、これに臨...
和悼山名殿 本匀惟肖
多芸憐君鬢兵緑 新阡覆土器聲残
衣冠人物一門表 騎射風流千衆観
玉樹階座駐□聚 梨花院落閉微寒
飛騰可惜男児志 万里雲霄早折翰
(「心田詩藁」)
栖眞院とは清眞つまり孑ろ7厶教のことであるが、これなどは...
江西竜派の「続翠詩集」にも満時に関する一句がある。
次韻挽山名源京兆
京兆成土末乾 三分春色一分残
章台揚柳断膓色 春鬢白頭無次第
夜泉華屋阻喧寒 栖眞ショウ化帰來鶴
何處仙山拾墜翰
現在、山名宗全(持豊)の菩提所として知られる南禅寺の塔頭...
1因幡国大江郷船岡東西
(『蔭凉軒口録」長禄二年八月四口条)
2備後国泉田内四ヶ村(遠碧院請地山門千手堂領)
(『山内家文書』-大日本古文書-)
遠碧院とは但馬・備後等守護山名宗全(持豊)であるが持豊は...
因幡国大江郷船岡東西が南禅寺栖眞院領になっていることは1の...
香嚴院御成……但還附之御成也、……南禅寺栖眞院領、不知行之在...
因幡国大江郷(現、鳥取県八頭郡船岡町)は八上郡に属してい...
備後国泉田内四が村が南禅寺栖眞院領であることは次の史料に...
栖眞院領四が村代官職事、雖三吉涌喜条々申子細候、
爲院主可有直務之由申付候、可被止違乱候、恐々謹言、
十月廿六日俊豊(花押)
山内大和守殿
この文書は延徳二年(一四九〇)に備後守護山名俊豊が備後の...
では栖眞院領四夕村の在所はどこであろうか。これについては...
「御院領備州泉田内三ヶ村御代官職事、就山内大和守と三吉涌...
とあり、この三ヶ村が備後国憲蘇郡泉田庄内(現、広島県庄原...
同年六月五日栖眞院真崇は山内豊成を、遠碧院請地山門千手堂...
これより前、享徳三年(一四五四)九月五日には栖眞院主宗坡...
西條四方村代官職が補任されている。
山名持豊は文安元年(一四四四)三月十二日に山内素通の父時...
山門領備後国四ヶ村栖眞院請地之事、従院主代官職契約之旨、...
...
文安元年三月十二日(花押)
山内上野介殿
明徳四年(二二九三)十月一日、山内通忠は延暦寺により山門...
満時は但馬・備後・伯耆・因幡・石見・安芸・伊賀等の守護職...
その持豊は兄満時の余徳をうけて山城国南禅寺栖眞院領を媒介...
(平成五年「一九九三」如月成稿)
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RIGHT:''小坂博之''
*はじめに
山名満時は明徳の乱で有名な山名時熈(常熈)の嫡子であり、...
*一、生年と没年
満時は応永三年つまり一三九六年の生れである。『康富記』応...
晴、今曉山名修理大夫満時被卒、此三年被違例、虚気夭シ病云々
二十五歳云々、親父金吾禅門愁歎無是非云々、哀也々々、性通...
この記事で満時の没年は応永二十七年(一四二〇)であること...
「又聞、山名右衛門佐入道嫡子死云々」
とあり、また『東海?華集』によると翌応永二十八年正月
二十一日に満時の小祥忌法要が南禅寺栖眞院で行われているか...
つまり山名満時の没年月日は応永二十七年閏一月二十一日であ...
満時の父は「親父金吾禅門」つまり「山名右衛門佐入道」であ...
満時の諱すなわち実名は室町幕府三代将軍足利義満の「満」の...
詩歌、書道、有職に通じた権大外記中原康富が「親父金吾禅門...
満時は二十三歳の頃から病気がちになり、三年の間、体調がす...
*二、満時の実績・官職
満時は応永二十一年(]四一四)三月十二日に室町幕府侍所に...
「侍所山名宮内少輔二被仰出云々」
とある。この侍所は室町幕府の最要職で三管領四職といわれた...
応永二十一年当時、但馬・備後守護山名常熈は健在で、常熈も...
満時は数え年十八歳で室町幕府の重職侍所頭人および山城守護...
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|=①侍所頭人山名満時書下(『古文書研究』第別号所収-東寺文...
| |=伊豫守|
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|=②侍所頭人山名満時書下封紙宛書(『古文書研究』第別号所収...
写真の①と②は応永二十一年六月二十七日当時の「宮内少輔」が...
山名満時の官途については応永二十一年三月十二日当時、「宮...
満時は応永二十三年四月には伊豫守として近江山上永源寺含空...
『大日本史料』第七編之二十四、応永二十三年四月三日条の禁...
山上永源寺含空院領伊勢国久米守忠名
は将軍義持が「守護使不入之地」として含空院に安堵したもの...
満時が伊豫守を帯していたことがわかると、『看聞日記』応永...
聞、山名右衛門佐入道屋形室町殿詔(招)請申、快然之餘内々...
つまり常熈の子息伊豫守は将軍義持によって刑部大輔に
昇進し、父の金吾入道常熈も右衛門督に昇進していることがわ...
しかし『康富記」では同年の応永二十四年九月二十五日条に
「同今日室町殿山名金吾禅門許御成云々、同子息刑部少輔満時...
とし満時の官位を刑部少輔としている。満時は刑部少輔から宮...
満時の極官は修理大夫であった。このことは前述した「康富記...
「今曉修理大夫満時被卒」
とあることにより確認できる。
満時が刑部少輔に任官したのは『歴名土代』に
「応永二十年六月十一日、従五位下刑部少輔」
とあるのがそれと考えられる。
*三、満時の歴史的意義
室町幕府の大守護でありまた四職家の山名常熈の嫡子として生...
満時の跡は因幡守護山名熈高の子、山名熈成が継いだが、これ...
満時の死後山名常熈の後継者と目されたのは満時の弟刑部少輔...
父常熈は応永二十八年(一四二一)正月二十一日、南禅寺栖眞...
栖眞院殿欣叟大禅定門小祥忌香……応永二十有八年正月二十一日...
(「東海橘華集一」「五山文学新集」所収)
巨川つまり常熈は法華経を書写して満時を供養し、また満時の...
香語で惟肖は満時の人柄について次のとおり語っている。
満時は天性人にすぐれ、その立居振舞はなおざりでなくいやし...
栖眞院殿欣叟大禅定門とは山名満時の法号であるが、山名常熈...
満時の死に悼む常熈に和して惟肖は一句を呈したが、これに臨...
和悼山名殿 本匀惟肖
多芸憐君鬢兵緑 新阡覆土器聲残
衣冠人物一門表 騎射風流千衆観
玉樹階座駐□聚 梨花院落閉微寒
飛騰可惜男児志 万里雲霄早折翰
(「心田詩藁」)
栖眞院とは清眞つまり孑ろ7厶教のことであるが、これなどは...
江西竜派の「続翠詩集」にも満時に関する一句がある。
次韻挽山名源京兆
京兆成土末乾 三分春色一分残
章台揚柳断膓色 春鬢白頭無次第
夜泉華屋阻喧寒 栖眞ショウ化帰來鶴
何處仙山拾墜翰
現在、山名宗全(持豊)の菩提所として知られる南禅寺の塔頭...
1因幡国大江郷船岡東西
(『蔭凉軒口録」長禄二年八月四口条)
2備後国泉田内四ヶ村(遠碧院請地山門千手堂領)
(『山内家文書』-大日本古文書-)
遠碧院とは但馬・備後等守護山名宗全(持豊)であるが持豊は...
因幡国大江郷船岡東西が南禅寺栖眞院領になっていることは1の...
香嚴院御成……但還附之御成也、……南禅寺栖眞院領、不知行之在...
因幡国大江郷(現、鳥取県八頭郡船岡町)は八上郡に属してい...
備後国泉田内四が村が南禅寺栖眞院領であることは次の史料に...
栖眞院領四が村代官職事、雖三吉涌喜条々申子細候、
爲院主可有直務之由申付候、可被止違乱候、恐々謹言、
十月廿六日俊豊(花押)
山内大和守殿
この文書は延徳二年(一四九〇)に備後守護山名俊豊が備後の...
では栖眞院領四夕村の在所はどこであろうか。これについては...
「御院領備州泉田内三ヶ村御代官職事、就山内大和守と三吉涌...
とあり、この三ヶ村が備後国憲蘇郡泉田庄内(現、広島県庄原...
同年六月五日栖眞院真崇は山内豊成を、遠碧院請地山門千手堂...
これより前、享徳三年(一四五四)九月五日には栖眞院主宗坡...
西條四方村代官職が補任されている。
山名持豊は文安元年(一四四四)三月十二日に山内素通の父時...
山門領備後国四ヶ村栖眞院請地之事、従院主代官職契約之旨、...
...
文安元年三月十二日(花押)
山内上野介殿
明徳四年(二二九三)十月一日、山内通忠は延暦寺により山門...
満時は但馬・備後・伯耆・因幡・石見・安芸・伊賀等の守護職...
その持豊は兄満時の余徳をうけて山城国南禅寺栖眞院領を媒介...
(平成五年「一九九三」如月成稿)
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