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寺報・書籍/ものがたり山名氏八百年/2.花吹雪-室町山名氏
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TITLE:花吹雪-室町山名氏
#navi(寺報・書籍/ものがたり山名氏八百年)
*梅津長福寺
文明五年(一四七三)三月 。
洛西梅津(現、京都市右京区梅津中村町)に甍(いらか)も高く...
大梅山長福禅寺は朝から重々しい空気に包まれています。
客殿奥の一室に臥せった西軍の総帥山名宗全が今しも七十年の...
からです。
洛中洛外からの伝騎はいつもの通りあとを絶ちませんが、いず...
しとどめられて、乗馬を一町(一〇九m)ほど離れた松林に繋ぎ、
足音をひそめて大方丈(本坊)に置かれた本陣へ向かうのでした。
山内の正法・大慈・瑞光ら子院に分宿している西軍方の大小名...
そばだてております。
応仁・文明の乱が勃発以来七年、山名軍は花の御所(将軍の御所...
したので、そこを西陣と言い、軍勢を西軍と呼びます。
従う武士は十数万、全国から馳せ参じた強武者揃いです。対す...
にこれまた十余万、合わせて三十万もの軍兵
がなだれこんでの攻め合いですから、花の都はたちまちに焼野...
『汝や知る、都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)、あがるを見て...
飯尾(いいのお)某はこう詠んで都の人々の悲しみのほどを訴...
そのころになると宗全は西軍の本陣をこの長福寺に移していま...
ここは都の西玄関です。山陰山陽を地盤とする宗全は、かねて...
寺に目を着け、洛東南禅寺とともに山名氏の拠りどころとして...
居室の正面押板(床の間)には宋元舶載の古筆と思しい禅画の三...
で一組になった軸物)が掛けられ、その前に置かれた三具足 (香...
(らんじゃ・銘香)の煙がうっすらと流れています。
この頃から流行しはじめた東山文化の典型的な様式です。普通...
面に阿弥陀如来像を祭り、その御手から五色の綱を垂らせて病...
えを信じ極楽往生を確かなものとする臨終行儀なのです。
宗全は『わしは鞍馬山の毘沙門天じゃそうな。一休坊主がそう...
ざわざの来迎もいるまいよ』と笑いとぱしたということです。
しかし、かっては赤入道と渾名されるほど活力にみちた宗全の...
した。
枕頭には禅の師であり善き友でもある南禅寺真粟院主の香林宗...
ぜんじ・一説には大蔭宗松とも)や嫡孫政豊ほか身内の数人が沈...
守っています。
「・・・・ムムウッ・・・・何処じゃな、ここは。ゆゆしげな...
オオッ、教豊(宗全の嫡男)ではないか、末座に控えたあの若者...
ておるわ。なるほど、あれの上座に空いた円座がひとつ。あそ...
「・・・・ああ、父上(時熈)もおいでじゃ。祖父上(時義)も曽...
は太祖義範公か。すると此処は上野国山名館でもあろうか。
わしはとうとうあの地を踏むことなしに終わるかと思うておっ...
「侍て教豊、じきにまいる。まいるが、その前にひとつしてお...
じゃ。政豊に氏の長者(棟梁・総領)の心構えを申し聞かさねば...
宗全は次第に深い水底にでも引きこまれるような眠たさと脱力...
両眼を大きく見開いて
「政豊ッ、政豊はおろか」
と、声だけは普段とかわりなく呼びかけました。
「ハイッ。政豊はこれに」
「うん、そうじやったな、政豊。祖父はな、今から教豊のとこ...
しきりに呼んどるでな・・・・。ところで政豊、そなた幾才に...
「ハイッ、三十才になりまする」
「そうそう、そうであったわ。応仁元年の軍で教豊が矢傷を負...
か)ったとき、そなたは確かニ十四じゃった。あれから六年、...
いてきた・・・・」
政豊の顔を見つめる宗全の瞼が次第に細まっていきます。
「じやがな、
政豊よ。武者は強いばかりでは駄目なのじゃ
。
若いそなたには納得いくまいが、
祖父の言い遺(のこ)しじや。よく聞いておいてくれい」
宗全はそこで話をとめて、二度三度と大きな息を継ぎました。
*山名氏の台頭
「わが家のナァ、昔のことはさて措くとして、天が下に山名あ...
そちも知っての通り中興時氏公からじゃ。公はわしの曽祖父に...
大祖父(おおじ い)じゃな」
*建武の中興
「その頃、天下はニつに分かれていたそうな。帝や公家衆もニ...
源氏のー統は執権(鎌倉幕府の最高権力者)北条氏の専横(せん...
いや我等ばかりではない。時代とともに力を蓄えはじめた新興...
体制からはみ出した冷や飯組じゃ。時あたかも皇位を嗣がれた...
醍醐・村上天皇の御代・―延喜天暦(八九七ー九五六)の昔を回復...
取り戻さんがために、討幕の綸旨(りんじ)を諸方に降された...
いう源家の名門には大きな期待がかけられていたぞ。元弘三年(...
六波羅(幕府軍の京都駐屯本部)を陥し、新田氏は鎌倉を降して...
んだわ」
「わが祖時氏公は新田氏の流れながら、足利方に与された。こ...
尊氏公とは従兄弟半という血縁もさることながら、新田の棟梁...
重を見抜かれてのことぞ」
「こうして出来上がった蓮武の中興も、平安王朝の栄華到来と...
族連と、一所懸命―おのがかち得た土地を命がけで守る―を旨と...
することができなんだ」
「こんな戯れ歌が流行したと言うぞ。
このごろ都にはやるもの
夜討・強盗・謀綸旨(にせれんじ)……着つけぬ冠
上の衣(きぬ) 持ちもならわぬ笏(しゃく)持ちて 内裏(だ...
や…
義貞公は新政権に加わって、一時は威勢を振ったかに見えたが...
新政に抗する武士団に追われて越前の国で敗死、帝は吉野の山...
っけない結末じゃ。
片や尊氏公は武家・農民層の保護者として、推されて室町幕府...
わが時氏公は、時代がこのように動くのをお見通しだったのじ...
*観応の擾乱(じょうらん)
「ところがじや。公平で私欲のうすいが評判の尊氏公にも敵が...
師直(こうのもろなお)まず失い、それが片付いたかと思うと...
がおきる。
帝もまた京と吉野の両方で、それぞれ己こそ正統と張り合うて...
天下はまたしてもニつに割れてしもうたわい。
時氏公は思われるところあって、一時(いつとき)吉野の南朝...
十二年が程、西国の諸所で武名を挙げられた―。伯誉・因幡・但...
「……こう言えば軍好きの猪武者とも思えようが、違うのじゃ。...
な、攻めるときには火を吹くばかりに攻め、和するときは親子...
うであったそうな。
われらが本貫とする但馬の国がそれじや。この国には飛鳥・奈...
た豪族がおってのう。今の太田垣・垣屋・八木らがそれじゃ。
曽祖父は彼等と戦うて但馬の国を攻め取るよりも、笑顔のうち...
策と、まああれこれ苦労はあったものの、今では山名四天王と...
納まっておるわい」
*六分一殿
時氏(一三〇三―一三七一)は世に「六分一殿」と呼ばれています...
一族で日本六十余か国の六分のー(伯耆・因幡・美作・但馬・丹...
出雲・隠岐の十一か国)を領するという足利幕府きっての大勢力...
時氏には十七男五女という沢山な子がありました。なかでも師...
さ)・氏冬・氏清・時義等が知られています。
*明徳の乱
坂東の一荘に興った山名氏がここまで急成長した事実は、山名...
かどうか。
時氏・時義というニ大実力者が世を去ったころ、三代将軍義満...
ました。
山名氏の総領時熈(ときひろ・時義の嫡子)とその伯父氏清・義...
内部分裂を計ったのです。
将軍は初めに氏清を使嗾(しそう)して時熈を除こうとし、翌...
清等を叛乱させる―。これを”明徳の乱”といいます。
この戦には将軍みずからも幕府軍を率いて出陣しましたから、...
らねばなりませんでした。悲憤に燃えた氏清軍は自滅を覚悟で...
討死します。
時に明徳二年十二月三十日、氏清四十八才、時熈二十五才でし...
戦後五日めの明徳三年一月四日には早くも山名一族の所領が没...
総領家時熈には但馬・因幡・伯耆の三国が辛うじて認められた...
*北野経王堂
余談ですが、将軍義満はこの氏情討伐が余程気になったとみえ...
を建てて鎮魂の供養をしています。これが北野の経王堂です(現...
り)。
経王とは法華経のことで、追善供養にはこの経を読むことが最...
将軍は毎年期日を定めて万部経会をつとめました。
法華経はー部八巻二十八品(章)という長篇ですから、僧侶一人...
は延べー万人となります。記録によると、毎年十月五日から十...
人もの僧侶が出仕しています。
初日には歴代の将軍や御台所(奥方)が参詣聴聞する仕来(しき...
これだけの大法要を恒例としたのですから、義満将軍の心底が...
*再中興宗全
長広舌がこたえたのでしよつか、宗全は目を閉じて呼吸を調え...
開けて話を続けました。
先ほどより声の調子が低くなっております。
「政豊よ。今ひとつ申しておかねばならぬ。聞こえるか」
「ハイツ、よく聞こえまする」
「そうか、では言おう。ほかではない、播州(現、兵庫県域の南...
にいれたのはこの祖父の仕事―。そなたも知っていようが」
「ハイ、だいたいは聞いておりまする」
*嘉吉の変
「あれは嘉吉(かきつ)一九年(一四四一)。そなたの生まれる...
がどえらいことをやりよってのう。公方(六代将軍義教・よし...
家の子熈貴(氏冬系、因幡守護職)も巻きぞえを喰ろて斬り殺さ...
赤松には赤松なりの理由があってのことじゃろが、反逆は反逆...
たからには是が非でも我が手で赤松を攻め亡ぼさねばと、二万...
播州へなだれこんだな。
満祐(みつすけ・赤松総領家)は覚悟を決めていたとみえ、城の...
てこも)りはしたが、思いのほかあっけなく自裁(自決)しよっ...
我が家はその功で播磨・備前・美作などをたまわり、ようやく...
「さて、この播磨が難物じゃ。知っての通り公方(八代将軍義政...
の罪を許すのみか、我等が血を流して得た播備作の権益を、こ...
呉れてやるなど、正気の沙汰とは思われん。
またぞろ 〃山名つぶし〃 が始まったわけよ。
政豊、播州は今なお山名・赤松の二派にわかれて一向に埒があ...
たの仕事ぞ。
頼んだぞよ」
「ハイツ、この政豊しかと肝に銘じまして」
「じやがな、政豊。腹立ちまぎれに無理押しはするなよ。立腹...
そなたはまだ三十、血の気が多いのは止むを得んが、幅広く世...
播州のことでも赤松を見るだけではなく、公方や管領の思惑を...
を取られぬようにすること。
それから、浦上(うらがみ・赤松幕下の実力者)ら国人衆の動き...
よ。その上に忘れてならぬことは自分の足元に注意することぞ...
めてきたが、但馬の国人衆じゃとて油断は禁物、今日の味方が...
が此の世の中と思え。それが 〃時を知る〃というものじゃ」
「ハハアーツ」
*例と時
「そうそう、時を知るといえばこんなことがあったわ。
文正二年(応仁元年)だったか、関白殿(一条兼良)がわれら武士...
る無体な例はござらぬとひどう立腹(りゅうふく)されてのう。
わしはこう申しあげたわい。
『堂上方(どうじょうがた)は何かというと有職故実(ゆいそ...
ゃと昔話をなさるが、今の世は下剋上の嵐が吹き荒れておりま...
(げげ)の者と軽うみられた百姓や町人どもが一揆徒党を組ん...
い、守護や幕府に刃向こうては徳政を要求する始末ですぞ。こ...
見落して先例にばかりこだわっていては結極時代からとり残さ...
後は例ということばを時と仰せられませい』とな」
*応仁の乱
「ところがじや。えらそうにそう広言吐いたわしが時を見そこ...
それが此度(こたび)の戦よ。
事の起りは管領家の畠山が二派に分かれての跡とり争い、どこ...
それが、片や細川に応援を頼み、片やこの祖父に泣きついてき...
勝元(細川氏の総領)は娘婿ではあるし、わが子豊久(宗全の七...
ど、いわば親子同然の仲じゃから、話せばわかる、そのうちに...
ておったが、これは大きな油断であった。宗全一世一代の大失...
勝元めはおのが領国から次々と大軍を呼び寄せてきよる。我等...
どもを呼ばねばならん。火の手はあがるばかりじゃ」
「そうなると、武者どもは武者どもの立場を主張しよって、こ...
「公方も公方じゃ。今の公方(八代義政)には跡をとる男の子が...
殿(義視・よしみ)を次の将軍にと決めたはよいが、皮肉なこと...
生まれてきよった。
それも御台所富子の方からよ。御台としてはこの子(義尚)に九...
ば無理からぬ話じや。わしも仲にはいって随分骨を折ってみた...
大きゆうなりおって……。
肝心の公方ときたら、そんな喧嘩は御免とばかり、わびじゃ・...
に呆(ほう)けてござる。
そうなると、東軍じゃ西軍じゃという戦いももはや山名・細川...
旧勢力の衝突になっ
てしもうた。まっこと時の為す業とは恐ろしいものよのう――」
「…思えばこれも、わしと勝元の不心得が引きおこしたこと―去...
成立とまで漕ぎつけたが、そなたも知っての通り、赤松(総領政...
―。
折角回復した播備作のうま味を失うまいとな」
「あとは言うまでもないことながち、和議失敗の責(せめ)を...
わしは切ろうにも髪がないでのう。せめてものことに雛腹(しわ...
うと……。
そしたら皆が寄ってたかって刀をとりあげたもんじゃから、フ...
ざまよ。
政豊、潮時をみて、この騒動を収めてくれい。
わしが死んだとなると勝元も否(いな)やはあるまいよ」
*宗全の臨終
「・・・ようしゃべった。これで七十年たまった胸のつかえが...
孫よ、障子を開けてくれい。―ーさくらが見たい―」
政豊がにじり寄って開けた障子の外には午後の春陽がやわらか...
庭の手前の心字池には幾ひらかの花びらが浮かんでいます。
青味を増してきた築山の叡山苔にも螺鈿(らでん)を散りばめ...
錆色(さびいろ)の練塀越しに姿をのぞかせる数株の老桜は、...
花片を托して禅苑を荘厳するのです。
「政豊、起こしてくれい。最後の頼みじゃ」
肩の肉が薄くなった宗全の背を、がっしりとした若い胸に抱き...
で込みあげてくる嶋咽をこらえています。
と、そのとき小さなつむじ風がおこりました。
それを待ちかねていたかのように、枝という枝は一斉にそよい...
全に贈ったのでした。
「…はなが・・」
「・・・ちるわい・・」
これが不世出の巨人として慕われ、恐れられもした宗全の遺偈...
文明五年三月十九日(新暦では四月中旬)没。世寿七十才。
遠碧院殿徒三位八州大守最高宗峰大居士。
遺骸は香林老師によって、長福寺境内の楠の根方で茶毘(火葬)...
禅寺真乗院の隠寮(いんりょう)・遠碧軒(おんぺきけん)に...
同年五月、細川勝元も病没。申し合わせたような両雄の死は、...
動を与えました。
翌六年(一四七四)四月三日、東西の若い総帥(そうすい)細川...
が成立、傘下の諸将も相ついで領国に引きあげます。
文明九年畠山義就の帰国を最後に、十一か年に亘る大乱は終結...
*山名氏中絶
政豊は帰国後、祖父宗全の遺命に従って播州の確保と領国但馬...
しかし、赤松氏側の反撃や但馬国人衆の造反などでやむなく播...
得ず、晩年は但馬桃島の宗源院で五十九才の生涯を寂しく閉じ...
そのあと、致豊・誠豊と続き、祐豊と氏政の時、織田信長の天...
家但馬山名氏は史上から姿を消し去ることになります。
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TITLE:花吹雪-室町山名氏
#navi(寺報・書籍/ものがたり山名氏八百年)
*梅津長福寺
文明五年(一四七三)三月 。
洛西梅津(現、京都市右京区梅津中村町)に甍(いらか)も高く...
大梅山長福禅寺は朝から重々しい空気に包まれています。
客殿奥の一室に臥せった西軍の総帥山名宗全が今しも七十年の...
からです。
洛中洛外からの伝騎はいつもの通りあとを絶ちませんが、いず...
しとどめられて、乗馬を一町(一〇九m)ほど離れた松林に繋ぎ、
足音をひそめて大方丈(本坊)に置かれた本陣へ向かうのでした。
山内の正法・大慈・瑞光ら子院に分宿している西軍方の大小名...
そばだてております。
応仁・文明の乱が勃発以来七年、山名軍は花の御所(将軍の御所...
したので、そこを西陣と言い、軍勢を西軍と呼びます。
従う武士は十数万、全国から馳せ参じた強武者揃いです。対す...
にこれまた十余万、合わせて三十万もの軍兵
がなだれこんでの攻め合いですから、花の都はたちまちに焼野...
『汝や知る、都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)、あがるを見て...
飯尾(いいのお)某はこう詠んで都の人々の悲しみのほどを訴...
そのころになると宗全は西軍の本陣をこの長福寺に移していま...
ここは都の西玄関です。山陰山陽を地盤とする宗全は、かねて...
寺に目を着け、洛東南禅寺とともに山名氏の拠りどころとして...
居室の正面押板(床の間)には宋元舶載の古筆と思しい禅画の三...
で一組になった軸物)が掛けられ、その前に置かれた三具足 (香...
(らんじゃ・銘香)の煙がうっすらと流れています。
この頃から流行しはじめた東山文化の典型的な様式です。普通...
面に阿弥陀如来像を祭り、その御手から五色の綱を垂らせて病...
えを信じ極楽往生を確かなものとする臨終行儀なのです。
宗全は『わしは鞍馬山の毘沙門天じゃそうな。一休坊主がそう...
ざわざの来迎もいるまいよ』と笑いとぱしたということです。
しかし、かっては赤入道と渾名されるほど活力にみちた宗全の...
した。
枕頭には禅の師であり善き友でもある南禅寺真粟院主の香林宗...
ぜんじ・一説には大蔭宗松とも)や嫡孫政豊ほか身内の数人が沈...
守っています。
「・・・・ムムウッ・・・・何処じゃな、ここは。ゆゆしげな...
オオッ、教豊(宗全の嫡男)ではないか、末座に控えたあの若者...
ておるわ。なるほど、あれの上座に空いた円座がひとつ。あそ...
「・・・・ああ、父上(時熈)もおいでじゃ。祖父上(時義)も曽...
は太祖義範公か。すると此処は上野国山名館でもあろうか。
わしはとうとうあの地を踏むことなしに終わるかと思うておっ...
「侍て教豊、じきにまいる。まいるが、その前にひとつしてお...
じゃ。政豊に氏の長者(棟梁・総領)の心構えを申し聞かさねば...
宗全は次第に深い水底にでも引きこまれるような眠たさと脱力...
両眼を大きく見開いて
「政豊ッ、政豊はおろか」
と、声だけは普段とかわりなく呼びかけました。
「ハイッ。政豊はこれに」
「うん、そうじやったな、政豊。祖父はな、今から教豊のとこ...
しきりに呼んどるでな・・・・。ところで政豊、そなた幾才に...
「ハイッ、三十才になりまする」
「そうそう、そうであったわ。応仁元年の軍で教豊が矢傷を負...
か)ったとき、そなたは確かニ十四じゃった。あれから六年、...
いてきた・・・・」
政豊の顔を見つめる宗全の瞼が次第に細まっていきます。
「じやがな、
政豊よ。武者は強いばかりでは駄目なのじゃ
。
若いそなたには納得いくまいが、
祖父の言い遺(のこ)しじや。よく聞いておいてくれい」
宗全はそこで話をとめて、二度三度と大きな息を継ぎました。
*山名氏の台頭
「わが家のナァ、昔のことはさて措くとして、天が下に山名あ...
そちも知っての通り中興時氏公からじゃ。公はわしの曽祖父に...
大祖父(おおじ い)じゃな」
*建武の中興
「その頃、天下はニつに分かれていたそうな。帝や公家衆もニ...
源氏のー統は執権(鎌倉幕府の最高権力者)北条氏の専横(せん...
いや我等ばかりではない。時代とともに力を蓄えはじめた新興...
体制からはみ出した冷や飯組じゃ。時あたかも皇位を嗣がれた...
醍醐・村上天皇の御代・―延喜天暦(八九七ー九五六)の昔を回復...
取り戻さんがために、討幕の綸旨(りんじ)を諸方に降された...
いう源家の名門には大きな期待がかけられていたぞ。元弘三年(...
六波羅(幕府軍の京都駐屯本部)を陥し、新田氏は鎌倉を降して...
んだわ」
「わが祖時氏公は新田氏の流れながら、足利方に与された。こ...
尊氏公とは従兄弟半という血縁もさることながら、新田の棟梁...
重を見抜かれてのことぞ」
「こうして出来上がった蓮武の中興も、平安王朝の栄華到来と...
族連と、一所懸命―おのがかち得た土地を命がけで守る―を旨と...
することができなんだ」
「こんな戯れ歌が流行したと言うぞ。
このごろ都にはやるもの
夜討・強盗・謀綸旨(にせれんじ)……着つけぬ冠
上の衣(きぬ) 持ちもならわぬ笏(しゃく)持ちて 内裏(だ...
や…
義貞公は新政権に加わって、一時は威勢を振ったかに見えたが...
新政に抗する武士団に追われて越前の国で敗死、帝は吉野の山...
っけない結末じゃ。
片や尊氏公は武家・農民層の保護者として、推されて室町幕府...
わが時氏公は、時代がこのように動くのをお見通しだったのじ...
*観応の擾乱(じょうらん)
「ところがじや。公平で私欲のうすいが評判の尊氏公にも敵が...
師直(こうのもろなお)まず失い、それが片付いたかと思うと...
がおきる。
帝もまた京と吉野の両方で、それぞれ己こそ正統と張り合うて...
天下はまたしてもニつに割れてしもうたわい。
時氏公は思われるところあって、一時(いつとき)吉野の南朝...
十二年が程、西国の諸所で武名を挙げられた―。伯誉・因幡・但...
「……こう言えば軍好きの猪武者とも思えようが、違うのじゃ。...
な、攻めるときには火を吹くばかりに攻め、和するときは親子...
うであったそうな。
われらが本貫とする但馬の国がそれじや。この国には飛鳥・奈...
た豪族がおってのう。今の太田垣・垣屋・八木らがそれじゃ。
曽祖父は彼等と戦うて但馬の国を攻め取るよりも、笑顔のうち...
策と、まああれこれ苦労はあったものの、今では山名四天王と...
納まっておるわい」
*六分一殿
時氏(一三〇三―一三七一)は世に「六分一殿」と呼ばれています...
一族で日本六十余か国の六分のー(伯耆・因幡・美作・但馬・丹...
出雲・隠岐の十一か国)を領するという足利幕府きっての大勢力...
時氏には十七男五女という沢山な子がありました。なかでも師...
さ)・氏冬・氏清・時義等が知られています。
*明徳の乱
坂東の一荘に興った山名氏がここまで急成長した事実は、山名...
かどうか。
時氏・時義というニ大実力者が世を去ったころ、三代将軍義満...
ました。
山名氏の総領時熈(ときひろ・時義の嫡子)とその伯父氏清・義...
内部分裂を計ったのです。
将軍は初めに氏清を使嗾(しそう)して時熈を除こうとし、翌...
清等を叛乱させる―。これを”明徳の乱”といいます。
この戦には将軍みずからも幕府軍を率いて出陣しましたから、...
らねばなりませんでした。悲憤に燃えた氏清軍は自滅を覚悟で...
討死します。
時に明徳二年十二月三十日、氏清四十八才、時熈二十五才でし...
戦後五日めの明徳三年一月四日には早くも山名一族の所領が没...
総領家時熈には但馬・因幡・伯耆の三国が辛うじて認められた...
*北野経王堂
余談ですが、将軍義満はこの氏情討伐が余程気になったとみえ...
を建てて鎮魂の供養をしています。これが北野の経王堂です(現...
り)。
経王とは法華経のことで、追善供養にはこの経を読むことが最...
将軍は毎年期日を定めて万部経会をつとめました。
法華経はー部八巻二十八品(章)という長篇ですから、僧侶一人...
は延べー万人となります。記録によると、毎年十月五日から十...
人もの僧侶が出仕しています。
初日には歴代の将軍や御台所(奥方)が参詣聴聞する仕来(しき...
これだけの大法要を恒例としたのですから、義満将軍の心底が...
*再中興宗全
長広舌がこたえたのでしよつか、宗全は目を閉じて呼吸を調え...
開けて話を続けました。
先ほどより声の調子が低くなっております。
「政豊よ。今ひとつ申しておかねばならぬ。聞こえるか」
「ハイツ、よく聞こえまする」
「そうか、では言おう。ほかではない、播州(現、兵庫県域の南...
にいれたのはこの祖父の仕事―。そなたも知っていようが」
「ハイ、だいたいは聞いておりまする」
*嘉吉の変
「あれは嘉吉(かきつ)一九年(一四四一)。そなたの生まれる...
がどえらいことをやりよってのう。公方(六代将軍義教・よし...
家の子熈貴(氏冬系、因幡守護職)も巻きぞえを喰ろて斬り殺さ...
赤松には赤松なりの理由があってのことじゃろが、反逆は反逆...
たからには是が非でも我が手で赤松を攻め亡ぼさねばと、二万...
播州へなだれこんだな。
満祐(みつすけ・赤松総領家)は覚悟を決めていたとみえ、城の...
てこも)りはしたが、思いのほかあっけなく自裁(自決)しよっ...
我が家はその功で播磨・備前・美作などをたまわり、ようやく...
「さて、この播磨が難物じゃ。知っての通り公方(八代将軍義政...
の罪を許すのみか、我等が血を流して得た播備作の権益を、こ...
呉れてやるなど、正気の沙汰とは思われん。
またぞろ 〃山名つぶし〃 が始まったわけよ。
政豊、播州は今なお山名・赤松の二派にわかれて一向に埒があ...
たの仕事ぞ。
頼んだぞよ」
「ハイツ、この政豊しかと肝に銘じまして」
「じやがな、政豊。腹立ちまぎれに無理押しはするなよ。立腹...
そなたはまだ三十、血の気が多いのは止むを得んが、幅広く世...
播州のことでも赤松を見るだけではなく、公方や管領の思惑を...
を取られぬようにすること。
それから、浦上(うらがみ・赤松幕下の実力者)ら国人衆の動き...
よ。その上に忘れてならぬことは自分の足元に注意することぞ...
めてきたが、但馬の国人衆じゃとて油断は禁物、今日の味方が...
が此の世の中と思え。それが 〃時を知る〃というものじゃ」
「ハハアーツ」
*例と時
「そうそう、時を知るといえばこんなことがあったわ。
文正二年(応仁元年)だったか、関白殿(一条兼良)がわれら武士...
る無体な例はござらぬとひどう立腹(りゅうふく)されてのう。
わしはこう申しあげたわい。
『堂上方(どうじょうがた)は何かというと有職故実(ゆいそ...
ゃと昔話をなさるが、今の世は下剋上の嵐が吹き荒れておりま...
(げげ)の者と軽うみられた百姓や町人どもが一揆徒党を組ん...
い、守護や幕府に刃向こうては徳政を要求する始末ですぞ。こ...
見落して先例にばかりこだわっていては結極時代からとり残さ...
後は例ということばを時と仰せられませい』とな」
*応仁の乱
「ところがじや。えらそうにそう広言吐いたわしが時を見そこ...
それが此度(こたび)の戦よ。
事の起りは管領家の畠山が二派に分かれての跡とり争い、どこ...
それが、片や細川に応援を頼み、片やこの祖父に泣きついてき...
勝元(細川氏の総領)は娘婿ではあるし、わが子豊久(宗全の七...
ど、いわば親子同然の仲じゃから、話せばわかる、そのうちに...
ておったが、これは大きな油断であった。宗全一世一代の大失...
勝元めはおのが領国から次々と大軍を呼び寄せてきよる。我等...
どもを呼ばねばならん。火の手はあがるばかりじゃ」
「そうなると、武者どもは武者どもの立場を主張しよって、こ...
「公方も公方じゃ。今の公方(八代義政)には跡をとる男の子が...
殿(義視・よしみ)を次の将軍にと決めたはよいが、皮肉なこと...
生まれてきよった。
それも御台所富子の方からよ。御台としてはこの子(義尚)に九...
ば無理からぬ話じや。わしも仲にはいって随分骨を折ってみた...
大きゆうなりおって……。
肝心の公方ときたら、そんな喧嘩は御免とばかり、わびじゃ・...
に呆(ほう)けてござる。
そうなると、東軍じゃ西軍じゃという戦いももはや山名・細川...
旧勢力の衝突になっ
てしもうた。まっこと時の為す業とは恐ろしいものよのう――」
「…思えばこれも、わしと勝元の不心得が引きおこしたこと―去...
成立とまで漕ぎつけたが、そなたも知っての通り、赤松(総領政...
―。
折角回復した播備作のうま味を失うまいとな」
「あとは言うまでもないことながち、和議失敗の責(せめ)を...
わしは切ろうにも髪がないでのう。せめてものことに雛腹(しわ...
うと……。
そしたら皆が寄ってたかって刀をとりあげたもんじゃから、フ...
ざまよ。
政豊、潮時をみて、この騒動を収めてくれい。
わしが死んだとなると勝元も否(いな)やはあるまいよ」
*宗全の臨終
「・・・ようしゃべった。これで七十年たまった胸のつかえが...
孫よ、障子を開けてくれい。―ーさくらが見たい―」
政豊がにじり寄って開けた障子の外には午後の春陽がやわらか...
庭の手前の心字池には幾ひらかの花びらが浮かんでいます。
青味を増してきた築山の叡山苔にも螺鈿(らでん)を散りばめ...
錆色(さびいろ)の練塀越しに姿をのぞかせる数株の老桜は、...
花片を托して禅苑を荘厳するのです。
「政豊、起こしてくれい。最後の頼みじゃ」
肩の肉が薄くなった宗全の背を、がっしりとした若い胸に抱き...
で込みあげてくる嶋咽をこらえています。
と、そのとき小さなつむじ風がおこりました。
それを待ちかねていたかのように、枝という枝は一斉にそよい...
全に贈ったのでした。
「…はなが・・」
「・・・ちるわい・・」
これが不世出の巨人として慕われ、恐れられもした宗全の遺偈...
文明五年三月十九日(新暦では四月中旬)没。世寿七十才。
遠碧院殿徒三位八州大守最高宗峰大居士。
遺骸は香林老師によって、長福寺境内の楠の根方で茶毘(火葬)...
禅寺真乗院の隠寮(いんりょう)・遠碧軒(おんぺきけん)に...
同年五月、細川勝元も病没。申し合わせたような両雄の死は、...
動を与えました。
翌六年(一四七四)四月三日、東西の若い総帥(そうすい)細川...
が成立、傘下の諸将も相ついで領国に引きあげます。
文明九年畠山義就の帰国を最後に、十一か年に亘る大乱は終結...
*山名氏中絶
政豊は帰国後、祖父宗全の遺命に従って播州の確保と領国但馬...
しかし、赤松氏側の反撃や但馬国人衆の造反などでやむなく播...
得ず、晩年は但馬桃島の宗源院で五十九才の生涯を寂しく閉じ...
そのあと、致豊・誠豊と続き、祐豊と氏政の時、織田信長の天...
家但馬山名氏は史上から姿を消し去ることになります。
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