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寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号/歴史は生きている
をテンプレートにして作成 ::
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:寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号/歴史は生きている をテンプレートにして作成
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#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)
*歴史は生きている
○過去があって現代があり、そして未来へとつづく
○山名・赤松両氏関係の概略を平易に書いてみた
RIGHT:''(竹田)田中一郎''
#clear
**目次
[[一、始めにひとこと>#q7d709b8]]
[[二、町民に歌われ続けている山名・赤松氏>#we3bfdea]]
○地元小学校歌 ○運動唱歌
○利田山町民歌 ○和田山町音頭
[[三、歴史に生きる竹田小学校「城跡の庭」>#k7a4fee0]]
○生き続けている歴史-写真資料
[[四、山名氏と但馬と竹田-そのあらまし>#bccbf41c]]
○山名氏の出自
○山名氏の基礎固めをした時氏
○山名氏系図(史料)
○山名氏の本拠此隅山城 ○生野町大明寺
○月庵に心酔した時義と時熈 ○月庵と老狼
○明徳の乱 ○豊岡市史「こぼれ話」
○嘉吉の乱-山名・赤松両氏の争い
[[五、応仁の乱と山名氏>#z5c13128]]
○夜久野が原の合戦と「内藤塚」
○人間としての山名宗全
六、赤松広秀の民政と史跡竹田城址
○城跡をどう見るか
○山名・赤松両軍の供養塔建立
○赤松広秀と藤原惺窩「広秀を悼む和歌三十首」
○「看羊録」と「姜沆(原本はニスイ)」のこと
○広秀の民政
七、山名・赤松両氏結縁の町づくり
-観点を変えて考える。
○終わりのことば
参考文献
○兵庫県史 ○但馬史(石田松蔵著)。豊岡市史
○看羊録(姜沆) ○赤松を悼む歌三十首(藤原惧惺窩)
○城郭大系(新人物往来社)
○和田山町の歴史 ○朝日・日本の歴史
○生野町史
**はじめに
山名・赤松両氏の交渉に関する事象をテーマにして書いてほし...
三月末日までにまとめて下さいとある。
二か月あるとは言うものの年度末のこと故何かとせわしい。も...
山名・赤松両氏抗争のくわしいことは、その道専門の学者にお...
そして、山名・赤松両氏の流れを汲む方がたに、一人でも多く...
読み返してみると、すべてにわたって不十分であり不行届きで...
でも、小学校教育にもとり入れられ、町民歌として町民合唱の...
両軍戦没諸霊の安らかに鎮まりまさんことを祈りつつ、執筆の...
(平成二年三月)
**町民に歌われ続けている山名・赤松氏
山名・赤松両氏は今も町民に歌われつづけている。
|竹田行進歌詞|竹田小学校譜面|h
|&ref(竹田校行進歌.jpg,mw:320);|&ref(竹田小学校校歌.jpg,m...
竹田小学校校歌の一番には「虎臥山に年ふりて、その名も高き...
-町民歌と竹田城跡
|&ref(和田山町民歌.jpg);|&ref(和田山音頭.jpg);|
町の公式行事の時に合唱する町民歌。その一番には「古城さや...
-町音頭と城跡
夏の祭りを始め色いろな催しごとに際して、歌っておどって幅...
**歴史に生きる「竹田小学校城跡の庭」
CENTER:''竹田小学校長 下村登''
#clear
本校では三年がかりで、城跡のある古城山と学校とを結ぶ「城...
「二十一世紀の成人の日に、ぼくたちは必ず地球の各地からこ...
「城跡の庭」は、ふるさとを愛する心の出発点であり、母校を...
*** 生きつづけている歴史
-竹田城址の場合
竹田小学校庭に作られた竹田城跡の模型、-子と親と教師との...
|&ref(P15-1.jpg,mw:240);|&ref(P15-2.jpg,mw:240);|
廃城になってから約四〇〇年。今なお住民は当時のことを語り...
|&ref(P16-2.jpg,mw:240);|
|&ref(P16-1.jpg,mw:240);&br;東の丸から天守曲輪(くるわ)...
*山名氏と但馬と竹田
○そのあらましについて
**山名氏の出自はどこか
山名氏は、新田義重の長男・義範が「上野国(こうずけのくに...
やがて時氏が力をのばして、丹波国守護となったのが一三四三...
*** 山名氏の基礎を固めた山名時氏
|AROUND TRIGHT:|c
|CENTER:山名家の系図|h
|&ref(P18.JPG,mw:320);|
丹波国守護となった山名時氏は、領国の拡大をねらって一三四...
がる三開山城を攻略する。後醍醐天皇の建武の新政から十年目...
山名氏の家臣団となった最初の但馬の武士は八木氏であった。
八木氏の本拠地「八木郷」は古代交通路を考えるとき重要な地...
このころ時氏は「因幡・伯耆・丹波・丹後・美作」五か国の守...
但馬の山陰道筋の国人層を手に入れていたのが八木氏であり、...
ここは、「日下部氏」が栄えた地である。養父郡の日下部氏の...
朝来郡の日下部氏の流れの中では「太田垣氏」がぬきん出て、...
朝来・養父の両郷は京都への進攻路に当っているので、但馬を...
この地の国人を握ることに苦心した時氏の眼識は高かった。
山名時氏は、一三六八年(応安元年)家督を総領の師義にゆず...
師義の代に入って、一三七二年(応安五年)山名氏は但馬守護...
#clear
***山名氏の本城・此隅山城(出石町宮内)
時義は出石町宮内の地に此隅城を築城した。此隅山は標高一四...
城の西方には、日本書紀に書かれている古代但馬を開発したと...
特に山名時義の系譜が嫡流を名のり「但馬山名」として勢威を...
但馬山名初代の時義は、晩年をほとんど但馬で暮らし上洛しな...
但馬で病没したのが、一三八九年(康平元年)四十四歳の若さ...
竹野町の円通寺に葬られている。
|=&ref(P20-1.jpg,mw:240);|=&ref(P20-2.jpg,mw:240);|
|但馬一の宮「出石神社」日本書記にあるように、新羅皇子「天...
**時義と月庵
-生野町・大明寺の座禅石
時義とその子「時熈(ときひろ)」は「月庸宗光」に心酔して...
月庵が開基したという寺は但馬に三か寺ある。生野町黒川の「...
|=&ref(P21-1.jpg,mw:240);|=&ref(P21-2.jpg,mw:240);|
|大明寺の本堂・庫裏など、有名な座禅石は手前中央に見えてい...
黒川は、先年関西電力の多々良木揚水発電の上部池ダムが構築...
大明寺には実に明朗闊達な住職がいらっしゃって、寺の歴史に...
老師、狼に申されていわく。「今後はこの人里近くに出没して...
座禅石は、当時をもの語るかのように、今も庭前に昔の姿その...
(補記)
月庵和尚が座して悟りの道を求めたという座禅石は、もとあっ...
**明徳の乱
-お家の事情というもの
山名家の本流である「師義」の家の後見役に時義がなった。こ...
一方将軍足利義満は、かねてから守護大名が強大になることを...
山名時義の死後を受けて二十三歳の嫡子,「時熈」が山名宗家...
一三九一年(明徳二年)のことで、世にいう「明徳の乱」であ...
結果的には山名時熈がわの勝利とはなったが、一族が相争った...
ここにおいて、将軍義満の考えた山名同族を戦わせて勢力を削...
**足利時代のヒーロー山名持豊(宗全)と領国の但馬
時熈が死去するとその後継者は「持熈」であった。
ところが時の将軍「義教」は陰険な性格であったらしく、持熈...
時熈の死によって、持熈と持豊との兄弟争いがあることは当然...
持豊が父の時熈の三回忌を京都でとり行った直後、持熈は反乱...
山名宗全その人である。一四三三年(永享五年)三十歳の働き...
豊岡市史によると、山名持豊(宗全)が領国の但馬に下向した...
そしてすべてが「播磨出兵」に関係していた。
第一は、「嘉吉の乱」に際して、播磨の赤松満祐を背後の但馬...
第二は、一四四四年(文安元年)十一月、先の嘉吉の乱の論功...
生野の真弓峠から播磨に討ち入り、目的を達して文定二年六月...
第三は、一四五四年(享徳三年)に播磨の赤松再興問題に関連...
持豊は嫡子の教豊に家督をゆずって隠居し、代りに持豊の子、...
この在国中に持豊・教豊らは、播磨国に攻め入り「赤松則尚」...
右に見るように、持豊が低馬に下国したのはすべて播磨の赤松...
山名氏はかって播磨国を所持していたが、「明徳の乱」で播磨...
但馬に下った時の持豊の居所は、戦時においては此隅山城であ...
**此隅城跡(出石町宮内)
山名時義は、「此隅山」に築城した.写真で見るごとく高い山...
後山名宗全はこの城を戦時の拠点とした。
此隅山の頂上には、やや広い削平地があり、東がわには階段状...
石垣はなく土塁の城であったのだろう。中世の山城としては貧...
|&ref(P25-1.jpg,mh:240);|&ref(P25-2.jpg,mw:320);|
**広報「とよおか」-こぼれ話より
***山名宗全のまち。豊岡・九日市。
豊岡と言わず足利時代史のヒーローは、いうまでも・なく「山...
幕府の重職として、日ごろは京都にいた宗全であるが、主とし...
但馬山名氏が在所を出石(此隅城・有子山城)に移したのは、...
宗全は応仁の乱の一方の将として知られているが、一四七三年...
三月十八日、七〇歳での死は
「東寺執行日記」「大乗院寺社雑事記」「実暁記」「見聞雑記...
などが取り上げているが、歴史上の人物の死が、これほど多く...
宗全が、いかに重要人物であったのか、しかも、応仁の乱中と...
(右は、豊岡市史編集委員・山口久喜氏の書かれた「市史こぼ...
**嘉吉の乱と山名持豊
国内支配を強化するため守護大名を助けた幕府も、
大名の勢力があまりに強くなり過ぎて力の均衡が失なわれそう...
六代将軍「足利義教」は気性の激しい人で「悪将軍」と言われ...
強い断圧に対しては、より強い反作用があることは歴史の示す...
守護大名「赤松満祐」も播磨国を奪われる心配をかねてから抱...
クジ引きに当って将軍になったと言われていた「クジ将軍」の...
赤松氏の分国、備前・播磨・美作の国はもと山名の分国であっ...
将軍義教殺害事件は、あまりにも突然のことで幕府方は為すす...
持豊は山陰道の総大将として赤松満祐軍を攻撃した。赤松軍は...
朝来の地は時熈以来、山名にとってなじみが深い。
山名軍は力戦よく赤松軍を攻めて瀬戸内まで攻めこみ城(き)...
満祐は国人層を確かと味方に付けることなく戦いに臨んだが、...
京都に凱旋した持豊は、満祐討伐の第一功労者として赤松の旧...
かっての明徳の乱で失った勢力の大部分を回復したのである。
この時、持豊三十八歳。得意の絶頂であったであろう。
持豊が一応播磨の乱を平げその武勇に反抗するものがないこと...
こうして「反山名運動」は「赤松再興問題」であり、三回に及...
特に「第三次赤松再興計画」は、「細川勝元」の指図によるも...
** 応仁の乱と山名氏
東洋史の泰斗、内藤湖南氏
「近代日本を理解するには、応仁の乱以降の歴史を知らなけれ...
「日本史を真っ二つに割るほどの重大な画期に位置する応仁の...
数ある内乱のうちでこの乱ほど目的・意図がはっきりしないわ...
NHKのテレビドラマなどでも応仁の乱が題材になったことは...
人気のない内乱ということであろう。
内乱にけ高い理念がない。将軍義政は酒宴に明け暮れしている...
不人気の内乱に対して、今谷助教授は種々考察されているが、...
山名氏は「嘉吉の乱(前述)」の手がらによって、播磨・備前...
対する細川氏も、摂津・和泉・丹波・備中さらには、淡路・讃...
やがては、幕政の主導権を握るのは、山名宗全か細川勝元かと...
以上が、乱勃発までの幕政の背景である。
このように政情は混乱し、山名・細川が対立していったことが...
しかし、持国の死後は後を継いだ実子「義就」と猶子(養子の...
|AROUND TRIGHT:|c
|CENTER:&ref(P29.jpg,mh:320);&br; P29系図|
「畠山義就」は東軍の「赤松政則」と並称される豪勇の将であ...
この畠山氏の内紛に際し、細川勝元は終始「政長」を支持した。
山名持豊は「義就」の才幹に注目して「義就支持派」となる。
その他、将軍義政の実子「義尚」の誕生によって、義政の後継...
(従来は上記が乱の原因であるとされていた。)
主因は畠山義就・政長の争いにそれぞれ加担する山名・細川両...
一四六七年(応仁元年)正月、政長は京都上御霊社境内で義就...
緒戦は山名軍が優勢、勝元は地方で反撃に転じた。
また細川勝元は勇将「赤松政則」に播磨・備前・美作の三か国...
東軍(細川軍)十六万、両軍(山名軍)十一万という大軍に誇...
傭兵集団というのは、戦いの方法が南北朝このかた「歩兵の集...
一四七三年(文明五年)には総帥の山名持豊と細川勝元が相い...
山名持豊の孫である「山名政豊」は、両軍の和平に力をつくし...
**夜久野原の合戦-内藤塚のこと
応仁の乱において利田山町臼井では「内藤塚」で知られている...
一四六七年(応仁元年)五月下旬の戦いから戦局は大きく進ん...
ところが播磨では、赤松の一族である赤松政秀が「赤松遺臣」...
この作戦に応ずるかのように細川方は「地方撹乱」(正しくは...
このころ山名の守護代は太田垣土佐守で、竹田城を預かってい...
内藤を討ったのは、新兵衛尉の家来、中路八郎三郎であった。
和田山町白井の「内藤塚」と伝えている小高いところには、石...
山名持豊はこの勝利を聞いて大いに喜び、将軍義満から賜わっ...
**山名宗全という人
応仁の乱で西軍の総大将となった「山名持豊-宗全」は「昆沙...
現婁主義を主張する実力者でもあって、ついに管領細川勝元と...
宗全はすぐれた武将であるとともに、和歌や連歌をたしなむ文...
近年、朝来郡朝来町上岩津の真言宗「鷲原寺」(通称わしはら...
彼の信仰心の表われであるとともに、朝来郡との関係の深さを...
**赤松広秀の民政と史跡竹田城趾
|&ref(P32.jpg,mw:320);&br;P32写真|
野面積の美を見せてくれる「竹田城跡」は、文禄から慶長の初...
|&ref(P33.jpg,mw:320);&br;P36竹田城地形図|
**史跡・竹田城址をしのび赤松広秀を語る
***一、今見る竹田城跡の構え
竹田城跡は、JR播但線竹田駅の西側にそば立つ「古城山」(...
P34赤松系図部にして北方に長ながと伏せている虎の姿態に似...
頂上の縄張りは、東西約一○○メートル、南北は約四〇〇メート...
またこの城は、山名宗全の築城になるものと言い伝え、完成す...
ところで、最近専門家の研究によると現在我われが眼の前に見...
+宗全のころに築かれた城塁は、どことも土塁や濠が主で、竹田...
+竹田城跡の石積みは「古式穴太(あのう)流」の「野面(のず...
この様式の最初の城は目「安土城」であり、安土城ならびに竹...
だとするなら一五八○年(天正八年)以降ということになる。
もっとも、織豊時代以前の山城の構築として、山名.太田垣氏...
***二、竹田城跡の見どころ
竹田城跡の歴史的詮索はしばらく置いて、この城の見どころを...
ここ三、四年前から城跡に杖をひく人が本当に多くなってきた。
土曜日曜などは四季を問わない。若い男女が一番多いが年配者...
クルマに乗っての人が多いが歩いている人も結構あ。
城址から何かを求めようとしている人は顔付きでそれとわかる...
「どんなところか一度登ってみたい」と思ったら迷うことなく...
山道を歩一歩ともの思いながら登る、などは何ものにも代えが...
竹田駅うらからの古道は少々きついが、若者向きであり、歴史...
もう一本の道は大字竹田の南端・町はずれから、JRの線路を...
目忘れずにぜひ合掌してほしいのは、駐車場の西がわに、五月...
山名・赤松の両軍が恩讎讎(おんしゅう)を越えてまつられる...
城跡にたどりつけば眼下に展開されている景観を時間をかげて...
歴史を秘め一た面影を残している。
竹田城跡の見どころは「石積みの美しさ」にある。
穴太流野面積の見事さである。一にも二にも石垣に注意してほ...
たとえば、花屋敷と言われている一郭から仰ぐ重畳たる石積み...
***三、城の歴史をさぐる
竹田城は、但馬国の守護大名であった山名宗全の家臣で、この...
太田垣氏は但馬生えぬきの国人であったが、一四世紀の中ごろ...
山名宗全は、一四四三年(嘉吉三年)初代城主として太田垣光...
秀吉の但馬攻めで太田垣氏による竹田城支配が終わるまで、景...
一五六九年(永禄十二年)八月織田信長は羽柴秀吉に但馬攻略...
一五八○年(天正八年)五月、秀吉は鳥取城を中心とした因幡攻...
一五八○年(天正八年)竹田城主には、秀吉の部下「桑山重晴」...
城主に栄転し後任として今も敬慕されている「赤松広秀-広英...
広秀は竹田に移住してからも「斑鳩寺」の鵤(いかるが)の太...
赤松政秀・赤松広英侯 供養塔
兵庫県知事 金井元彦書
竜野城主 赤松政秀 文武の誉高くその子広英、また文雅の才...
赤松氏は悲しくも断絶した 斑鳩寺の鐘楼は国宝三重塔を創建...
昭和三十八年十月建之
東大教授文学博士 阿部吉雄 他七名
(七名の中の一人に、元竹田町長足立荘太郎氏がはいっている...
竹田城主「赤松広秀」の無二の親友は程朱の学をきわめ、儒学...
慢窩は「赤松氏を悼む和歌三十首」を書きあらわし、広秀の死...
「赤松左兵衛佐(さひょうえのすけ)広通は、ゆかりあるぬし...
かくばかり 終りただしき筆のあとを みるかひもなく乱れて...
(解釈)
赤松左兵衛佐広通は、わたしと縁故の深い人物であり、昔から...
長年秘蔵していた書物などを形見に残し、ねんごな手紙を、わ...
死にのぞんで、とりみだしようすもない端正な筆跡を見て、せ...
これによっても広秀がどんな人物であったかが推察されると思...
広秀は赤松氏の支流ではあるが播州龍野城主・赤松政秀の次男...
一六〇〇年(慶長五年)九月に「関が原の役」が起きたが、広...
たまたま鳥取城下は出火によって多くの住民が困窮したが、家...
鳥取市湯所町「赤松八幡宮」の地に葬られている。武人として...
当時有名な儒者「藤原幌窩」と親交があり、龍野市「景雲寺跡...
朝鮮の大儒「姜抗」(きょうこう、かんはい)が、朝鮮の役に...
秀吉・家康を始め多くの人物批評など、実に興趣つきない記録...
また養蚕業を振興し、税の減免をはかるなど民政の面にも努力...
まことに「山名宗全」が着手して播いた竹田城という種子が、...
**山名・赤松両氏結縁の町づくり
-観点を変えて考えてみよう
「城と人間」が共存していて訪れる人びとの心をとらえて離さ...
「的(まと)」を兵庫県にしぼった。そして二十一世紀をより...
それは、「出石町」「篠山町」「龍野市」である。
出石此隅城と龍野城とは、竹田虎臥城と深い人間的つながりが...
-第一はともに「城下町」であること。
-第二ぽ「鉄道から離れ」ていること。
-第三は「人物が多く出ている」こと。
-もう一点は「特色のあるものを持っている」ことである。
城下町として歴史の重みに耐えて今日に至り、わけても、鉄道...
人物輩出については、出石町には加藤弘之・斉藤隆夫氏などが...
篠山町は軍都として栄え本庄繁大将などが出た。
龍野市は哲学者として三木清氏、「赤とんぼ」であまりにも有...
最後の特色あるものとしては、出石町では「出石焼」と「出石...
これらの市町の町づくりで痛感することは、「物と心の調和」...
それぞれ市・町の個性と伝統を生かした地場産業を発展させ、...
「徳政相論」という有名な事実がある。国民はいつの場合でも...
こい願わくば「供養塔建立」が「世界平和」への一歩前進の一...
#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)
終了行:
#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)
*歴史は生きている
○過去があって現代があり、そして未来へとつづく
○山名・赤松両氏関係の概略を平易に書いてみた
RIGHT:''(竹田)田中一郎''
#clear
**目次
[[一、始めにひとこと>#q7d709b8]]
[[二、町民に歌われ続けている山名・赤松氏>#we3bfdea]]
○地元小学校歌 ○運動唱歌
○利田山町民歌 ○和田山町音頭
[[三、歴史に生きる竹田小学校「城跡の庭」>#k7a4fee0]]
○生き続けている歴史-写真資料
[[四、山名氏と但馬と竹田-そのあらまし>#bccbf41c]]
○山名氏の出自
○山名氏の基礎固めをした時氏
○山名氏系図(史料)
○山名氏の本拠此隅山城 ○生野町大明寺
○月庵に心酔した時義と時熈 ○月庵と老狼
○明徳の乱 ○豊岡市史「こぼれ話」
○嘉吉の乱-山名・赤松両氏の争い
[[五、応仁の乱と山名氏>#z5c13128]]
○夜久野が原の合戦と「内藤塚」
○人間としての山名宗全
六、赤松広秀の民政と史跡竹田城址
○城跡をどう見るか
○山名・赤松両軍の供養塔建立
○赤松広秀と藤原惺窩「広秀を悼む和歌三十首」
○「看羊録」と「姜沆(原本はニスイ)」のこと
○広秀の民政
七、山名・赤松両氏結縁の町づくり
-観点を変えて考える。
○終わりのことば
参考文献
○兵庫県史 ○但馬史(石田松蔵著)。豊岡市史
○看羊録(姜沆) ○赤松を悼む歌三十首(藤原惧惺窩)
○城郭大系(新人物往来社)
○和田山町の歴史 ○朝日・日本の歴史
○生野町史
**はじめに
山名・赤松両氏の交渉に関する事象をテーマにして書いてほし...
三月末日までにまとめて下さいとある。
二か月あるとは言うものの年度末のこと故何かとせわしい。も...
山名・赤松両氏抗争のくわしいことは、その道専門の学者にお...
そして、山名・赤松両氏の流れを汲む方がたに、一人でも多く...
読み返してみると、すべてにわたって不十分であり不行届きで...
でも、小学校教育にもとり入れられ、町民歌として町民合唱の...
両軍戦没諸霊の安らかに鎮まりまさんことを祈りつつ、執筆の...
(平成二年三月)
**町民に歌われ続けている山名・赤松氏
山名・赤松両氏は今も町民に歌われつづけている。
|竹田行進歌詞|竹田小学校譜面|h
|&ref(竹田校行進歌.jpg,mw:320);|&ref(竹田小学校校歌.jpg,m...
竹田小学校校歌の一番には「虎臥山に年ふりて、その名も高き...
-町民歌と竹田城跡
|&ref(和田山町民歌.jpg);|&ref(和田山音頭.jpg);|
町の公式行事の時に合唱する町民歌。その一番には「古城さや...
-町音頭と城跡
夏の祭りを始め色いろな催しごとに際して、歌っておどって幅...
**歴史に生きる「竹田小学校城跡の庭」
CENTER:''竹田小学校長 下村登''
#clear
本校では三年がかりで、城跡のある古城山と学校とを結ぶ「城...
「二十一世紀の成人の日に、ぼくたちは必ず地球の各地からこ...
「城跡の庭」は、ふるさとを愛する心の出発点であり、母校を...
*** 生きつづけている歴史
-竹田城址の場合
竹田小学校庭に作られた竹田城跡の模型、-子と親と教師との...
|&ref(P15-1.jpg,mw:240);|&ref(P15-2.jpg,mw:240);|
廃城になってから約四〇〇年。今なお住民は当時のことを語り...
|&ref(P16-2.jpg,mw:240);|
|&ref(P16-1.jpg,mw:240);&br;東の丸から天守曲輪(くるわ)...
*山名氏と但馬と竹田
○そのあらましについて
**山名氏の出自はどこか
山名氏は、新田義重の長男・義範が「上野国(こうずけのくに...
やがて時氏が力をのばして、丹波国守護となったのが一三四三...
*** 山名氏の基礎を固めた山名時氏
|AROUND TRIGHT:|c
|CENTER:山名家の系図|h
|&ref(P18.JPG,mw:320);|
丹波国守護となった山名時氏は、領国の拡大をねらって一三四...
がる三開山城を攻略する。後醍醐天皇の建武の新政から十年目...
山名氏の家臣団となった最初の但馬の武士は八木氏であった。
八木氏の本拠地「八木郷」は古代交通路を考えるとき重要な地...
このころ時氏は「因幡・伯耆・丹波・丹後・美作」五か国の守...
但馬の山陰道筋の国人層を手に入れていたのが八木氏であり、...
ここは、「日下部氏」が栄えた地である。養父郡の日下部氏の...
朝来郡の日下部氏の流れの中では「太田垣氏」がぬきん出て、...
朝来・養父の両郷は京都への進攻路に当っているので、但馬を...
この地の国人を握ることに苦心した時氏の眼識は高かった。
山名時氏は、一三六八年(応安元年)家督を総領の師義にゆず...
師義の代に入って、一三七二年(応安五年)山名氏は但馬守護...
#clear
***山名氏の本城・此隅山城(出石町宮内)
時義は出石町宮内の地に此隅城を築城した。此隅山は標高一四...
城の西方には、日本書紀に書かれている古代但馬を開発したと...
特に山名時義の系譜が嫡流を名のり「但馬山名」として勢威を...
但馬山名初代の時義は、晩年をほとんど但馬で暮らし上洛しな...
但馬で病没したのが、一三八九年(康平元年)四十四歳の若さ...
竹野町の円通寺に葬られている。
|=&ref(P20-1.jpg,mw:240);|=&ref(P20-2.jpg,mw:240);|
|但馬一の宮「出石神社」日本書記にあるように、新羅皇子「天...
**時義と月庵
-生野町・大明寺の座禅石
時義とその子「時熈(ときひろ)」は「月庸宗光」に心酔して...
月庵が開基したという寺は但馬に三か寺ある。生野町黒川の「...
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|大明寺の本堂・庫裏など、有名な座禅石は手前中央に見えてい...
黒川は、先年関西電力の多々良木揚水発電の上部池ダムが構築...
大明寺には実に明朗闊達な住職がいらっしゃって、寺の歴史に...
老師、狼に申されていわく。「今後はこの人里近くに出没して...
座禅石は、当時をもの語るかのように、今も庭前に昔の姿その...
(補記)
月庵和尚が座して悟りの道を求めたという座禅石は、もとあっ...
**明徳の乱
-お家の事情というもの
山名家の本流である「師義」の家の後見役に時義がなった。こ...
一方将軍足利義満は、かねてから守護大名が強大になることを...
山名時義の死後を受けて二十三歳の嫡子,「時熈」が山名宗家...
一三九一年(明徳二年)のことで、世にいう「明徳の乱」であ...
結果的には山名時熈がわの勝利とはなったが、一族が相争った...
ここにおいて、将軍義満の考えた山名同族を戦わせて勢力を削...
**足利時代のヒーロー山名持豊(宗全)と領国の但馬
時熈が死去するとその後継者は「持熈」であった。
ところが時の将軍「義教」は陰険な性格であったらしく、持熈...
時熈の死によって、持熈と持豊との兄弟争いがあることは当然...
持豊が父の時熈の三回忌を京都でとり行った直後、持熈は反乱...
山名宗全その人である。一四三三年(永享五年)三十歳の働き...
豊岡市史によると、山名持豊(宗全)が領国の但馬に下向した...
そしてすべてが「播磨出兵」に関係していた。
第一は、「嘉吉の乱」に際して、播磨の赤松満祐を背後の但馬...
第二は、一四四四年(文安元年)十一月、先の嘉吉の乱の論功...
生野の真弓峠から播磨に討ち入り、目的を達して文定二年六月...
第三は、一四五四年(享徳三年)に播磨の赤松再興問題に関連...
持豊は嫡子の教豊に家督をゆずって隠居し、代りに持豊の子、...
この在国中に持豊・教豊らは、播磨国に攻め入り「赤松則尚」...
右に見るように、持豊が低馬に下国したのはすべて播磨の赤松...
山名氏はかって播磨国を所持していたが、「明徳の乱」で播磨...
但馬に下った時の持豊の居所は、戦時においては此隅山城であ...
**此隅城跡(出石町宮内)
山名時義は、「此隅山」に築城した.写真で見るごとく高い山...
後山名宗全はこの城を戦時の拠点とした。
此隅山の頂上には、やや広い削平地があり、東がわには階段状...
石垣はなく土塁の城であったのだろう。中世の山城としては貧...
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**広報「とよおか」-こぼれ話より
***山名宗全のまち。豊岡・九日市。
豊岡と言わず足利時代史のヒーローは、いうまでも・なく「山...
幕府の重職として、日ごろは京都にいた宗全であるが、主とし...
但馬山名氏が在所を出石(此隅城・有子山城)に移したのは、...
宗全は応仁の乱の一方の将として知られているが、一四七三年...
三月十八日、七〇歳での死は
「東寺執行日記」「大乗院寺社雑事記」「実暁記」「見聞雑記...
などが取り上げているが、歴史上の人物の死が、これほど多く...
宗全が、いかに重要人物であったのか、しかも、応仁の乱中と...
(右は、豊岡市史編集委員・山口久喜氏の書かれた「市史こぼ...
**嘉吉の乱と山名持豊
国内支配を強化するため守護大名を助けた幕府も、
大名の勢力があまりに強くなり過ぎて力の均衡が失なわれそう...
六代将軍「足利義教」は気性の激しい人で「悪将軍」と言われ...
強い断圧に対しては、より強い反作用があることは歴史の示す...
守護大名「赤松満祐」も播磨国を奪われる心配をかねてから抱...
クジ引きに当って将軍になったと言われていた「クジ将軍」の...
赤松氏の分国、備前・播磨・美作の国はもと山名の分国であっ...
将軍義教殺害事件は、あまりにも突然のことで幕府方は為すす...
持豊は山陰道の総大将として赤松満祐軍を攻撃した。赤松軍は...
朝来の地は時熈以来、山名にとってなじみが深い。
山名軍は力戦よく赤松軍を攻めて瀬戸内まで攻めこみ城(き)...
満祐は国人層を確かと味方に付けることなく戦いに臨んだが、...
京都に凱旋した持豊は、満祐討伐の第一功労者として赤松の旧...
かっての明徳の乱で失った勢力の大部分を回復したのである。
この時、持豊三十八歳。得意の絶頂であったであろう。
持豊が一応播磨の乱を平げその武勇に反抗するものがないこと...
こうして「反山名運動」は「赤松再興問題」であり、三回に及...
特に「第三次赤松再興計画」は、「細川勝元」の指図によるも...
** 応仁の乱と山名氏
東洋史の泰斗、内藤湖南氏
「近代日本を理解するには、応仁の乱以降の歴史を知らなけれ...
「日本史を真っ二つに割るほどの重大な画期に位置する応仁の...
数ある内乱のうちでこの乱ほど目的・意図がはっきりしないわ...
NHKのテレビドラマなどでも応仁の乱が題材になったことは...
人気のない内乱ということであろう。
内乱にけ高い理念がない。将軍義政は酒宴に明け暮れしている...
不人気の内乱に対して、今谷助教授は種々考察されているが、...
山名氏は「嘉吉の乱(前述)」の手がらによって、播磨・備前...
対する細川氏も、摂津・和泉・丹波・備中さらには、淡路・讃...
やがては、幕政の主導権を握るのは、山名宗全か細川勝元かと...
以上が、乱勃発までの幕政の背景である。
このように政情は混乱し、山名・細川が対立していったことが...
しかし、持国の死後は後を継いだ実子「義就」と猶子(養子の...
|AROUND TRIGHT:|c
|CENTER:&ref(P29.jpg,mh:320);&br; P29系図|
「畠山義就」は東軍の「赤松政則」と並称される豪勇の将であ...
この畠山氏の内紛に際し、細川勝元は終始「政長」を支持した。
山名持豊は「義就」の才幹に注目して「義就支持派」となる。
その他、将軍義政の実子「義尚」の誕生によって、義政の後継...
(従来は上記が乱の原因であるとされていた。)
主因は畠山義就・政長の争いにそれぞれ加担する山名・細川両...
一四六七年(応仁元年)正月、政長は京都上御霊社境内で義就...
緒戦は山名軍が優勢、勝元は地方で反撃に転じた。
また細川勝元は勇将「赤松政則」に播磨・備前・美作の三か国...
東軍(細川軍)十六万、両軍(山名軍)十一万という大軍に誇...
傭兵集団というのは、戦いの方法が南北朝このかた「歩兵の集...
一四七三年(文明五年)には総帥の山名持豊と細川勝元が相い...
山名持豊の孫である「山名政豊」は、両軍の和平に力をつくし...
**夜久野原の合戦-内藤塚のこと
応仁の乱において利田山町臼井では「内藤塚」で知られている...
一四六七年(応仁元年)五月下旬の戦いから戦局は大きく進ん...
ところが播磨では、赤松の一族である赤松政秀が「赤松遺臣」...
この作戦に応ずるかのように細川方は「地方撹乱」(正しくは...
このころ山名の守護代は太田垣土佐守で、竹田城を預かってい...
内藤を討ったのは、新兵衛尉の家来、中路八郎三郎であった。
和田山町白井の「内藤塚」と伝えている小高いところには、石...
山名持豊はこの勝利を聞いて大いに喜び、将軍義満から賜わっ...
**山名宗全という人
応仁の乱で西軍の総大将となった「山名持豊-宗全」は「昆沙...
現婁主義を主張する実力者でもあって、ついに管領細川勝元と...
宗全はすぐれた武将であるとともに、和歌や連歌をたしなむ文...
近年、朝来郡朝来町上岩津の真言宗「鷲原寺」(通称わしはら...
彼の信仰心の表われであるとともに、朝来郡との関係の深さを...
**赤松広秀の民政と史跡竹田城趾
|&ref(P32.jpg,mw:320);&br;P32写真|
野面積の美を見せてくれる「竹田城跡」は、文禄から慶長の初...
|&ref(P33.jpg,mw:320);&br;P36竹田城地形図|
**史跡・竹田城址をしのび赤松広秀を語る
***一、今見る竹田城跡の構え
竹田城跡は、JR播但線竹田駅の西側にそば立つ「古城山」(...
P34赤松系図部にして北方に長ながと伏せている虎の姿態に似...
頂上の縄張りは、東西約一○○メートル、南北は約四〇〇メート...
またこの城は、山名宗全の築城になるものと言い伝え、完成す...
ところで、最近専門家の研究によると現在我われが眼の前に見...
+宗全のころに築かれた城塁は、どことも土塁や濠が主で、竹田...
+竹田城跡の石積みは「古式穴太(あのう)流」の「野面(のず...
この様式の最初の城は目「安土城」であり、安土城ならびに竹...
だとするなら一五八○年(天正八年)以降ということになる。
もっとも、織豊時代以前の山城の構築として、山名.太田垣氏...
***二、竹田城跡の見どころ
竹田城跡の歴史的詮索はしばらく置いて、この城の見どころを...
ここ三、四年前から城跡に杖をひく人が本当に多くなってきた。
土曜日曜などは四季を問わない。若い男女が一番多いが年配者...
クルマに乗っての人が多いが歩いている人も結構あ。
城址から何かを求めようとしている人は顔付きでそれとわかる...
「どんなところか一度登ってみたい」と思ったら迷うことなく...
山道を歩一歩ともの思いながら登る、などは何ものにも代えが...
竹田駅うらからの古道は少々きついが、若者向きであり、歴史...
もう一本の道は大字竹田の南端・町はずれから、JRの線路を...
目忘れずにぜひ合掌してほしいのは、駐車場の西がわに、五月...
山名・赤松の両軍が恩讎讎(おんしゅう)を越えてまつられる...
城跡にたどりつけば眼下に展開されている景観を時間をかげて...
歴史を秘め一た面影を残している。
竹田城跡の見どころは「石積みの美しさ」にある。
穴太流野面積の見事さである。一にも二にも石垣に注意してほ...
たとえば、花屋敷と言われている一郭から仰ぐ重畳たる石積み...
***三、城の歴史をさぐる
竹田城は、但馬国の守護大名であった山名宗全の家臣で、この...
太田垣氏は但馬生えぬきの国人であったが、一四世紀の中ごろ...
山名宗全は、一四四三年(嘉吉三年)初代城主として太田垣光...
秀吉の但馬攻めで太田垣氏による竹田城支配が終わるまで、景...
一五六九年(永禄十二年)八月織田信長は羽柴秀吉に但馬攻略...
一五八○年(天正八年)五月、秀吉は鳥取城を中心とした因幡攻...
一五八○年(天正八年)竹田城主には、秀吉の部下「桑山重晴」...
城主に栄転し後任として今も敬慕されている「赤松広秀-広英...
広秀は竹田に移住してからも「斑鳩寺」の鵤(いかるが)の太...
赤松政秀・赤松広英侯 供養塔
兵庫県知事 金井元彦書
竜野城主 赤松政秀 文武の誉高くその子広英、また文雅の才...
赤松氏は悲しくも断絶した 斑鳩寺の鐘楼は国宝三重塔を創建...
昭和三十八年十月建之
東大教授文学博士 阿部吉雄 他七名
(七名の中の一人に、元竹田町長足立荘太郎氏がはいっている...
竹田城主「赤松広秀」の無二の親友は程朱の学をきわめ、儒学...
慢窩は「赤松氏を悼む和歌三十首」を書きあらわし、広秀の死...
「赤松左兵衛佐(さひょうえのすけ)広通は、ゆかりあるぬし...
かくばかり 終りただしき筆のあとを みるかひもなく乱れて...
(解釈)
赤松左兵衛佐広通は、わたしと縁故の深い人物であり、昔から...
長年秘蔵していた書物などを形見に残し、ねんごな手紙を、わ...
死にのぞんで、とりみだしようすもない端正な筆跡を見て、せ...
これによっても広秀がどんな人物であったかが推察されると思...
広秀は赤松氏の支流ではあるが播州龍野城主・赤松政秀の次男...
一六〇〇年(慶長五年)九月に「関が原の役」が起きたが、広...
たまたま鳥取城下は出火によって多くの住民が困窮したが、家...
鳥取市湯所町「赤松八幡宮」の地に葬られている。武人として...
当時有名な儒者「藤原幌窩」と親交があり、龍野市「景雲寺跡...
朝鮮の大儒「姜抗」(きょうこう、かんはい)が、朝鮮の役に...
秀吉・家康を始め多くの人物批評など、実に興趣つきない記録...
また養蚕業を振興し、税の減免をはかるなど民政の面にも努力...
まことに「山名宗全」が着手して播いた竹田城という種子が、...
**山名・赤松両氏結縁の町づくり
-観点を変えて考えてみよう
「城と人間」が共存していて訪れる人びとの心をとらえて離さ...
「的(まと)」を兵庫県にしぼった。そして二十一世紀をより...
それは、「出石町」「篠山町」「龍野市」である。
出石此隅城と龍野城とは、竹田虎臥城と深い人間的つながりが...
-第一はともに「城下町」であること。
-第二ぽ「鉄道から離れ」ていること。
-第三は「人物が多く出ている」こと。
-もう一点は「特色のあるものを持っている」ことである。
城下町として歴史の重みに耐えて今日に至り、わけても、鉄道...
人物輩出については、出石町には加藤弘之・斉藤隆夫氏などが...
篠山町は軍都として栄え本庄繁大将などが出た。
龍野市は哲学者として三木清氏、「赤とんぼ」であまりにも有...
最後の特色あるものとしては、出石町では「出石焼」と「出石...
これらの市町の町づくりで痛感することは、「物と心の調和」...
それぞれ市・町の個性と伝統を生かした地場産業を発展させ、...
「徳政相論」という有名な事実がある。国民はいつの場合でも...
こい願わくば「供養塔建立」が「世界平和」への一歩前進の一...
#navi(寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号)
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