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https://photos.app.goo.gl/LfHTjmfHP6cUwtNK9
¶ 源満仲
┌─────┼─────┐
源頼光 源頼親 源頼信
#ref(http://houun.jp/uploads/photos/773.jpg,right,around,mw:240,神戸新聞HPから)
¶平成16年10月20日、近畿地方を襲った台風23号は各地に記録的な豪雨をもたらし、北近畿(特に円山川・由良川流域)は、広い範囲で増水による洪水被害を蒙りました。
洪水に取り囲まれ観光バスの屋根に上って一夜を明かした人、堤防の決壊により家が流された人、増水によって市街地のほとんどが床上浸水になった豊岡市の姿は記憶に良く残っていると思います。
当時のマスコミの報道は、どちらかと言えば豊岡市街の被災状況報道が中心であり、人々の関心もそちらに集中していたのでしたが、豊岡市街以外にも出石・日高・八鹿でも甚大な被害を受けた箇所も多々ありました。
周辺の被害状況が良く知られていなかった為か?豊岡市街に復旧支援に向かうボランティアの車列渋滞の横で、地元の人々が誰の手助けも無く黙々と復旧作業を行うといった奇妙な光景も各所で見られたように思えます。
このページは豊岡市を流れる円山川の少し上流にある日高町赤崎での被害の状況を記録したものです。
赤碕には法雲寺と同じ天台宗にお寺、進美寺があるのですが、私自身も豊岡における洪水被害はテレビ等で分っていたのですが、この赤崎地区の被害については進美寺住職からの電話(10/22)があって初めて知った訳です。
豊岡市日高町赤碕を地図で確認
赤碕(豊岡市日高町赤碕)は、豊岡盆地の入り口に位置し、その前を流れる円山川は地図でも分かるように大きく蛇行し一部川幅が狭くなっている箇所もある。
台風23号による豪雨で、円山川上流から下ってくる水、それに赤崎の背後にある山に降った水、それに加え荒廃した山林から放置された間伐材などが川の流れに乗ってくだり、流れを妨げたことなどもあって、赤崎の南側から堤防を越えた水が浸水してきたらしい。
また、赤崎の周囲に張り巡らされている堤防や、盛り土をされて作られている農道などの影響により、赤崎に入った水は地区外に逃げることができず、短時間のうちに村の3分の2が浸水被害にあったのではないかと想像しています。
物資の供給は日を追うごとに改善される物と思うのですが、被災された方々を力支えする意味でも、天台宗として見守っている姿勢を感じ取っていただければ檀信徒の皆さんも多いに安心するのではないかと考えています。
また、**住職兼務寺であります観音寺地区でも土砂災害が発生しているようです。
宗務庁は閉庁で対応が難しいことかと思うのですが、ご検討お願いいたします。
尚、詳しい状況は (旧URL) よりご覧いただけます。
このたびの台風23号の円山川氾濫による、日高町赤崎地区(天台宗進美寺檀家)の被災に際しまして、各仏青役職及び理事様を中心とした支援の働きかけ誠に有難う御座います。
ご説明が遅れておりますが第5部が理解している状況についてご報告させて頂きます。
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正面のお堂が位牌堂、右側が本堂です。山名蔵は左側の白壁の建物。 | 山名氏史料館「山名蔵」 |
その強大な勢力が為に足利将軍を始め周囲から恐れられ、一族内での対立を謀られたり、応仁の乱に引き込まれたりと・・・やがてその権勢も徐々に弱まり、戦国の時代になると、所領する国も但馬・因幡等となりました。
豊臣秀吉の但馬征伐で出石に本拠を置いた但馬山名氏は滅亡し、因幡山名氏の最後の当主、山名豊国(禅高)は家臣の反対を押し切り、秀吉の前に屈して、辛うじて山名の名を残すことが出来ました。
江戸時代に入り、徳川の世となると、豊国は但馬国七美(ひつみ)郷の6500石を安堵され、村岡山名として再出発をし、交替寄り合い衆として幕末まで徳川幕府に十数代に渡り仕えました。
当法雲寺は村岡山名第三代矩豊公が藩都を村岡に移した際に在郷の禅院(妙心寺末「報恩寺」:詳細は不明)を街の中心に据え、鎌倉以来の歴代当主の位牌を祀り、山名氏の総菩提所と定めた事に由来します。
#ref(http://houun.jp/uploads/photos/754.JPG,mw:240,right,around,法雲寺縁起)
¶平成26年秋の執筆開始から約1年半の歳月を掛けて、前住職・廣昭の労作(遺作)「平成版『法雲寺縁起』」が完成しました。
是非とも多くの皆さんに読んで頂ければと思っているところですが、
先ずは、前住職葬儀に参列頂いた皆様にお配りさせて頂き、前住職を偲んで頂ければと願って居ります。
その後、ご希望の方があれば、お分け出来ればと考えている所です。
034.pdf | 寺報34号 | 2016/05/15 | 前住職の葬儀等 |
033.pdf | 寺報33号 | 役員総会、但馬七花寺巡拝 |
034.pdf | 寺報34号 | 2016/05/15 | 前住職の葬儀等 |
033.pdf | 寺報33号 | 役員総会、但馬七花寺巡拝 |
030.pdf | 寺報29号 | 2012/01/01 |
030.pdf | 寺報30号 | 2012/08/01 | |
[添付] | 寺報29号 | 2012/01/01 |
016.pdf | 寺報16号 | 2006/11/10 | |
015.pdf | 寺報15号 | 2006/07/30 | 魂を忘れた我々日本人 |
014.pdf | 寺報14号 | 2006/03/18 | |
013.pdf | 寺報13号 | 2006/01/01 | 衣食足りて何を知る? |
012.pdf | 寺報12号 | 2005/11/01 |
ファイル名 | 号数 | 発行日 | 備考 |
034.pdf | 寺報34号 | 2016/05/15 | 前住職の葬儀等 |
033.pdf | 寺報33号 | 役員総会、但馬七花寺巡拝 | |
032.pdf | 寺報32号 | 2013/06/10 | 役員総会、但馬七花寺巡拝 |
031.pdf | 寺報31号 | 2013/01/01 | 「江口の君」、山名会の報告 |
030.pdf | 寺報30号 | 2012/08/01 | |
030.pdf | 寺報29号 | 2012/01/01 | |
028.pdf | 寺報28号 | 2011/08/01 | 雪害復旧工事、お盆の日程等 |
027.pdf | 寺報27号 | 2011/01/01 | 各種工事のご報告 |
026.pdf | 寺報26号 | 2010/08/01 | 花の寺 |
025.pdf | 寺報25号 | 2010/06/01 | 魂のかたち |
024.pdf | 寺報24号 | 2009/12/25 | むかわり考 |
023.pdf | 寺報23号 | 2009/07/25 | お通夜の挨拶 |
022.pdf | 寺報22号 | 2009/06/10 | 性善説?性悪説? |
021.pdf | 寺報21号 | 2008/12/20 | 人生往来手形 |
020.pdf | 寺報20号 | 2008/07/20 | お金が掛からない「供養」 |
019.pdf | 寺報19号 | 2008/01/01 | 生死観なき時代 |
018.pdf | 寺報18号 | 2007/08/05 | お墓掃除 |
018.pdf | 寺報17号 | 2007/01/01 | 命の大切さをどう伝えるか? |
016.pdf | 寺報16号 | 2006/11/10 | |
015.pdf | 寺報15号 | 2006/07/30 | 魂を忘れた我々日本人 |
014.pdf | 寺報14号 | 2006/03/18 | |
013.pdf | 寺報13号 | 2006/01/01 | 衣食足りて何を知る? |
012.pdf | 寺報12号 | 2005/11/01 | |
011.pdf | 寺報11号 | 2005/08/01 | |
010.pdf | 寺報10号 | 2005/03/20 | お彼岸と太陽 |
009.pdf | 寺報9号 | 2005/01/01 | |
008.pdf | 寺報8号 | 2004/10/01 | 「諦める」は負け? |
007.pdf | 寺報7号 | 2004/07/01 | 天台宗開宗1200年記念兵庫教区特別授戒会 |
006.pdf | 寺報6号 | 2004/01/01 | |
005.pdf | 寺報5号 | 2003/09/01 | 位牌が増えてしまったら |
004.pdf | 寺報4号 | 2003/08/01 | お盆を支えていたもの |
003.pdf | 寺報3号 | 2002/11/01 | 千僧法要 |
002.pdf | 寺報2号 | 2002/04/01 | 再生の春 |
001.pdf | 寺報1号 | 2002/01/01 | 発行にあたって |
当縁起は、法雲寺前住職である十九代廣昭が米寿記念として、平成26年秋から27年師走まで取り組んできたものですが、この縁起が刊行する2週間前に著者である前住職は急逝し、残念ながら本人はこの本を手にすることは出来ませんでした。
¶#ref(http://houun.jp/uploads/photos/768.jpg,mh:240,right,around,法雲寺縁起)
¶#ref(http://houun.jp/uploads/photos/754.JPG,mw:240,right,around,法雲寺縁起)
¶#ref(http://houun.jp/uploads/photos/754.JPG,mw:240,right,around,法雲寺縁起)
当縁起は、法雲寺前住職である十九代廣昭が米寿記念として、平成26年秋から27年師走まで取り組んできたものですが、この縁起が刊行する2週間前に著者である前住職は急逝し、残念ながら本人はこの本を手にすることは出来ませんでした。
此の程、前住職満中陰も済み関係諸氏へ遺著となった当縁起のお配りも出来ましたので、残数の200冊ほどはご希望の方にお分けさせていただけます。(要協力金2000円)
お寺の縁起と言うと固苦しそうですが、当縁起は物語調で比較的読みやすい文章となっており、時間潰しの読み物としても気軽に読んで頂けるのでは無いかと思います。
江戸時代の初め寛永19年(1641)、村岡山名三代矩豊(のりとよ)公は藩都を旧来の福岡(香美町村岡区福岡)から村岡へと移す事業に取りかかります。それまで荒れた川原場の小集落に過ぎなかった村岡の地に、護岸を巡らせ新しい町を形作っていきます。
陣屋と藩公菩提寺を結ぶ筋を「縦の中心線」とし、東西に通る山陰道を「横の中心線」として、城下街の作法に則った街造りを進めました。その意味では、陣屋と藩公菩提寺は城下街村岡・寛永時代のニュータウン村岡の基点とも言えます。
一つは江戸時代に藩公菩提寺に定められた法雲寺ですが、それ以前の前身について、何と言うお寺で、何処にあったのか?が今一つはっきりとしていませんでした。(戦中まであった古い梵鐘の銘文に「以前は臨済の禅苑」と彫られていたのが、唯一の手がかり)
もう一つは、法雲寺を藩公菩提寺に定めた矩豊公は自他共に認める熱心な法華経信者であったのにも関わらず、公の晩年にあっさりと日蓮宗から天台宗に宗旨替えをし、それに伴い法雲寺も日蓮宗から天台宗に改宗させられました。
これについては、老境に入った矩豊公の「宗教的心情の変化」とか、将軍お側役の立場上からの「政治的判断」とか、歴代の住職は思い思いに語って来ました。
それが縁有って、法雲寺と同時期に日蓮宗から天台宗に改宗させられた御寺院(碑文谷・円融寺)から、寺史資料のご提供を受け、改宗にまつわる経緯が大分明らかとなりました。それを検証する為に前住職が、旧来からの七美郡関係の郷土史料を宗教(政策)面中心に整理を進めていくと、自ずと法雲寺の前身像も輪郭が見えて来た訳です。
前住職はこれを期として、法雲寺の成り立ちから、今現在に至るまでの大まかな流れを―平成版―「法雲寺縁起」としてまとめる事を決意したようです。
#ls2(寺報・書籍/法雲寺縁起/)
年次 | 西紀 | 報恩寺・法雲寺関係 | 関 連 |
幕府は禁中や諸大寺の伝統勢力を削ぐため各種の法度を発した。 特に臨済宗に厳しく紫衣事件を起こす。 | |||
元和4 | 1618 | 七味郡内の臨済宗寺院数か寺が転宗廃寺となる。 (報恩寺の名前は見当たらない) | |
領主山名矩豊。法雲寺を菩提寺とし臨済宗から日蓮宗(法華宗)に改宗命ずる。 「法雲」の名の初出。 | |||
寛永21 | 1644 | 法雲寺初代日源没。 江戸碑文谷日映中興開山として入寺日映は法華経の権威で矩豊の師。 | |
元禄4 | 1691 | 領主矩豊の命により山号院号宗旨を改める。 東林山養安院法雲寺(天台宗)。 | |
延淳2 | 1745 | 法雲寺の格式定まる寺領百石・用人席出礼格(家老待遇)。 山名家御霊屋を寺内に新設。 | |
天保15 | 1844 | 村岡大火に寺全焼(本尊仏と御霊屋は焼亡を防ぐ) 直ちに旧儀により再建着工。 |
寛永21 | 1644 | 法雲寺初代日源没。江戸碑文谷日映中興開山として入寺日映は法華経の権威で矩豊の師。 | |
正保1 | 1644 | 村岡町西口に厳浄寺を移す。 | |
慶安1 | 1648 | 村岡町東口に大運寺を移す。 | |
初入部以来50年経過領主矩豊も70歳の高齢となる。 | |||
元禄4 | 1691 | 領主矩豊の命により山号院号宗旨を改める。東林山養安院法雲寺(天台宗)。 | |
延淳2 | 1745 | 法雲寺の格式定まる寺領百石・用人席出礼格(家老待遇)。山名家御霊屋を寺内に新設。 | |
天保15 | 1844 | 村岡大火に寺全焼(本尊仏と御霊屋は焼亡を防ぐ)直ちに旧儀により再建着工。 | |
明治1 | 1868 | 新政府より「村岡藩一万一千石」公認。 | |
昭和50 | 1975 | 藩祖禅高公三五〇年祭記念事業として寺堂舎仏殿の大改修境内整備等を実施。 |
建武1 | 1334 | 建武の中興。藤原藤房出家。(授翁宗弼か) | |
幕府は禁中や諸大寺の伝統勢力を削ぐため各種の法度を発した。特に臨済宗に厳しく紫衣事件を起こす。 | |||
寛永3 | 1626 | 村岡山名初代禅高没。 | |
寛永5 | 1628 | 村岡山名二代豊政隠居三代矩豊(9才)家督。 | |
寛永7 | 1630 | 二代豊政没法雲院殿と号す。 | |
寛永12 | 1635 | 三代矩豊交代寄合衆に列する。 | |
寛永19 | 1642 | 矩豊初入部領内仕置を改める(23才)。 | |
領主山名矩豊。法雲寺を菩提寺とし臨済宗から日蓮宗(法華宗)に改宗命ずる。「法雲」の名の初出。 |
年次 | 西紀 | 報恩寺・法雲寺関係 | 関 連 |
建武1 | 1334 | 建武の中興。藤原藤房出家。(授翁宗弼か) | |
暦応1 | 1338 | 足利尊氏室町幕府を開く。 | |
康永4 | 1343 | 花園妙心寺開創(花園上皇御願・関山慧玄初代)。 | |
康永6 | 1345 | 妙心寺二世授翁宗弼山内に微笑庵(政所)を建立。 | |
貞治3 | 1364 | 但馬国七美庄下方を比丘尼明瑚が微笑庵(妙心寺)に寄進。 | |
応安3 | 1370 | 但馬国上方(友実・胞弘名)を町経秀が微笑庵に寄進。 | |
応安5 | 1372 | 但馬国七美庄下方(未国名)を多紀未利が微笑庵に寄進。 | |
応安6 | 1373 | 但馬国七美庄上方(萩山名)を町経秀が微笑庵に寄進。 | |
七美庄のほぼ全域が妙心寺微笑庵の荘園となる。 | |||
永和1 | 1375 | 但馬国七美庄下方未国名に授翁宗弼は報恩寺(荘園政所)を建立。 | |
応仁1 | 1467 | 荘園制度崩壊 | 応仁の乱(十一ヶ年) |
文明9 | 1477 | 武士層の戦国大名化 | 戦国時代(約百ヶ年) |
天正1 | 1573 | 織豊政権・安土桃山時代 | 室町幕府滅亡 |
天正13 | 1585 | 豊臣秀吉関白 | |
慶長5 | 1600 | 関ヶ原の戦い | |
慶長6 | 1601 | 山名禅高但馬国七美郡一円安堵され兎塚庄に陣屋を置く | |
慶長8 | 1603 | 徳川家康江戸幕府開府 | |
慶長10 | 1605 | 山名禅高花園妙心寺に東林院を建立 | |
元和1 | 1615 | 大阪夏の陣豊臣氏滅亡。元和偃武 | |
幕府は禁中や諸大寺の伝統勢力を削ぐため各種の法度を発した。 特に臨済宗に厳しく紫衣事件を起こす。 | |||
元和4 | 1618 | 七味郡内の臨済宗寺院数か寺が転宗廃寺となる。 (報恩寺の名前は見当たらない) | |
寛永3 | 1626 | 村岡山名初代禅高没。 | |
寛永5 | 1628 | 村岡山名二代豊政隠居三代矩豊(9才)家督。 | |
寛永7 | 1630 | 二代豊政没法雲院殿と号す。 | |
寛永12 | 1635 | 三代矩豊交代寄合衆に列する。 | |
寛永19 | 1642 | 矩豊初入部領内仕置を改める(23才)。 | |
領主山名矩豊。法雲寺を菩提寺とし臨済宗から日蓮宗(法華宗)に改宗命ずる。 「法雲」の名の初出。 | |||
寛永21 | 1644 | 法雲寺初代日源没。 江戸碑文谷日映中興開山として入寺日映は法華経の権威で矩豊の師。 | |
正保1 | 1644 | 村岡町西口に厳浄寺を移す。 | |
慶安1 | 1648 | 村岡町東口に大運寺を移す。 | |
寛文2 | 1662 | 法雲寺移遷事業終わる。 | |
延宝2 | 1674 | 法雲寺本尊釈迦如来座像を造顕(禅宗様式踏習)。 | |
貞享4 | 1687 | 法雲寺梵鐘鋳造鋳銘は中興日映受潤山法雲寺とある。 | |
初入部以来50年経過領主矩豊も70歳の高齢となる。 | |||
元禄4 | 1691 | 領主矩豊の命により山号院号宗旨を改める。 東林山養安院法雲寺(天台宗)。 | |
延淳2 | 1745 | 法雲寺の格式定まる寺領百石・用人席出礼格(家老待遇)。 山名家御霊屋を寺内に新設。 | |
宝暦10 | 1760 | 現住秦侃法雲寺堂舎を再建。 | |
天保15 | 1844 | 村岡大火に寺全焼(本尊仏と御霊屋は焼亡を防ぐ) 直ちに旧儀により再建着工。 | |
明治1 | 1868 | 新政府より「村岡藩一万一千石」公認。 | |
明治2 | 1869 | 寺領返納法雲寺財政大打撃。 | 廃藩置県。 |
明治5 | 1872 | 仮戸長役場(後の村岡町役場)を法雲寺内に設置。 | |
明治14 | 1881 | 村岡町役場新設。法雲寺より分離。 | |
昭和27 | 1952 | 農地法により寺有田すべてを失うも寺院の伝統維持につとめる。 | |
昭和50 | 1975 | 藩祖禅高公三五〇年祭記念事業として寺堂舎仏殿の大改修境内整備等を実施。 |
#ls2(寺報・書籍/法雲寺縁起/)
#ls2(寺報・書籍/法雲寺縁起/)
#ref(http://houun.jp/uploads/photos/752.jpg,around,right,mw:240,前住職正装姿)
¶〈縁起〉といえば歴史の先生方は端から相手になさいません。有りもしないことをサモ事実めかしく言ったり、面白おかしく説いたりが特徴ですからもっともなんですが、一概に斬り捨てるのはどうでしょうか。例えば、行基菩薩や弘法大師を開山とするお寺は世に五万というほど在りますね。それを単に有名人の名を騙(かた)る詐欺師と見るか、それとも高僧に何等かの縁がある無名僧が、自らの努力で作りあげた新寺にお師匠様をお名前だけでもお迎えして、開山第一世の栄誉を回向(えこう)していたと見るかで随分評価が違って参ります。その実例がこの本の二の段で出て参りますから、そのときまた考えましょうか。
私などは一介の野衲ですから《歴史》などとは全く無縁にこの齢まで過ごしてまいりました。それが今『法雲寺縁起』なる一篇に立ち向かったのですから《身の程知らず》のお嗤いは当然でしょうが、せめてものことに《米老の気法楽》と許してやってくださいませんか。
「エエー今晩はようこそのお運びで…ありがとうありがとう、おかげさんでやつがれも八十八のこの歳まで、お十夜のお勤めさせて貰えて、結構な事ですワ」
「それでなあ。今回は前々から約束していましたこの寺の最初(はな)から今日までの足取りをお聞き取り願おう思てナ。去年から丸一年掛かってかってまとめたんだがコレ」(この小冊子をとりあげて皆に見せる)
「だいたいが、どこのお寺やお宮でも〈縁起〉チュウもんがあるもんですが、この法雲寺にはそれが御座いません。思いますのに、昔はたぶんあったんでしょうが、度重なる宗旨替えや、寺の移転、それに大火事などで消えてしまったんでしょうナ」
「それからもうひとつ。縁起なるものには大抵けったいな怪物が出てきて、有名な高僧や験者の教化で改心するというお噺になっていますね。また、それを絵巻物や掛軸にして説明してゆく〈絵説き〉にもなるんですが、法雲寺のはそれらと性格が違いますから、この点、当(あ)てにせんとって下さいよ。」
〈縁起〉といえば歴史の先生方は端から相手になさいません。有りもしないことをサモ事実めかしく言ったり、面白おかしく説いたりが特徴ですからもっともなんですが、一概に斬り捨てるのはどうでしょうか。例えば、行基菩薩や弘法大師を開山とするお寺は世に五万というほど在りますね。それを単に有名人の名を騙(かた)る詐欺師と見るか、それとも高僧に何等かの縁がある無名僧が、自らの努力で作りあげた新寺にお師匠様をお名前だけでもお迎えして、開山第一世の栄誉を回向(えこう)していたと見るかで随分評価が違って参ります。その実例がこの本の二の段で出て参りますから、そのときまた考えましょうか。
私などは一介の野衲ですから《歴史》などとは全く無縁にこの齢まで過ごしてまいりました。それが今『法雲寺縁起』なる一篇に立ち向かったのですから《身の程知らず》のお嗤いは当然でしょうが、せめてものことに《米老の気法楽》と許してやってくださいませんか。
#ls2(寺報・書籍/法雲寺縁起/)
#navi()
前書きにかえて |
#navi
口上 | 1 |
一の段、臨済宗 報恩寺の時代 | 3 |
(1)臨済宗 報恩寺開山 | 4 |
(2)『幻の寺』報恩寺 | 8 |
(3)元和の受難 | 14 |
(4)報恩寺閉山と法雲寺開山 | 17 |
二の段 日蓮宗 法雲寺の時代 | 21 |
(1)山名氏について | 22 |
(2)山名氏菩提寺法雲寺 | 23 |
(3)山名氏霊牌 | 25 |
(4)日源・日映上人と矩豊公 | 27 |
(5)法雲寺移転事業 | 32 |
(6)矩豊公と仏教美術 | 34 |
(7)梵鐘鋳造と銘文 | 36 |
(8)日蓮宗受難と天台宗改宗 | 39 |
三の段 天台宗 法雲寺の時代 | 45 |
(1)法雲寺再中興 | 45 |
(2)矩豊公御逝去 | 49 |
(3)日映上人御遷化 | 51 |
(4)天台宗初期の頃 | 52 |
(5)藩公菩提寺の格式 | 53 |
(6)藩公御霊屋建立 | 55 |
(7)本堂再建 | 56 |
(8)山名氏と神祇 | 57 |
(9)禅高公神号勅許 | 58 |
(10)悲運の駒姫と栄光の母磐代の君 | 60 |
(11)天保の大火 | 65 |
(12)廃藩と法雲寺 | 66 |
(13)藩祖禅高公三百回遠忌 | 73 |
(14)昭和前期の頃 | 77 |
①梵鐘供出 | 77 |
②村岡山名第十二代・義路公逝去 | 78 |
③農地解放 | 79 |
④梵鐘再鋳 | 80 |
(15)昭和中期の頃 | 83 |
①高松宮様御宿奉迎準備 | 83 |
②高松宮様ご来泊 | 85 |
③第十三世山名義鶴公ご逝去 | 86 |
④本堂内外昭和修理 | 87 |
⑤山名祭奉賛会の組織 | 90 |
⑥山名祭奉修の記 | 97 |
(16)昭和後期の頃 | 100 |
①本堂大屋根改修工事と太田垣泰明氏 | 101 |
②全国山名氏一族会結成 | 105 |
③新庫裏建立 | 109 |
(17)平成の頃 | 110 |
①山名赤松両氏顕彰会結成と供養塔建立 | 110 |
②山名赤松両軍陣歿諸霊供養塔落成式要記 | 119 |
③山名氏史料館開設と濵田・太田垣氏 | 121 |
④隠寮建立 | 124 |
⑤新住職晋山と山名寺開山 | 125 |
(18)高松宮頌徳碑建立の記 | 126 |
終の段 | 132 |
法雲寺年表 | 135 |
#navi
¶口上 | 1 |
一の段、臨済宗 報恩寺の時代 | 3 |
(1)臨済宗 報恩寺開山 | 4 |
(2)『幻の寺』報恩寺 | 8 |
(3)元和の受難 | 14 |
(4)報恩寺閉山と法雲寺開山 | 17 |
二の段 日蓮宗 法雲寺の時代 | 21 |
(1)山名氏について | 22 |
(2)山名氏菩提寺法雲寺 | 23 |
(3)山名氏霊牌 | 25 |
(4)日源・日映上人と矩豊公 | 27 |
(5)法雲寺移転事業 | 32 |
(6)矩豊公と仏教美術 | 34 |
(7)梵鐘鋳造と銘文 | 36 |
(8)日蓮宗受難と天台宗改宗 | 39 |
三の段 天台宗 法雲寺の時代 | 45 |
(1)法雲寺再中興 | 45 |
(2)矩豊公御逝去 | 49 |
(3)日映上人御遷化 | 51 |
(4)天台宗初期の頃 | 52 |
(5)藩公菩提寺の格式 | 53 |
(6)藩公御霊屋建立 | 55 |
(7)本堂再建 | 56 |
(8)山名氏と神祇 | 57 |
(9)禅高公神号勅許 | 58 |
(10)悲運の駒姫と栄光の母磐代の君 | 60 |
(11)天保の大火 | 65 |
(12)廃藩と法雲寺 | 66 |
(13)藩祖禅高公三百回遠忌 | 73 |
(14)昭和前期の頃 | 77 |
①梵鐘供出 | 77 |
②村岡山名第十二代・義路公逝去 | 78 |
③農地解放 | 79 |
④梵鐘再鋳 | 80 |
(15)昭和中期の頃 | 83 |
①高松宮様御宿奉迎準備 | 83 |
②高松宮様ご来泊 | 85 |
③第十三世山名義鶴公ご逝去 | 86 |
④本堂内外昭和修理 | 87 |
⑤山名祭奉賛会の組織 | 90 |
⑥山名祭奉修の記 | 97 |
(16)昭和後期の頃 | 100 |
①本堂大屋根改修工事と太田垣泰明氏 | 101 |
②全国山名氏一族会結成 | 105 |
③新庫裏建立 | 109 |
(17)平成の頃 | 110 |
①山名赤松両氏顕彰会結成と供養塔建立 | 110 |
②山名赤松両軍陣歿諸霊供養塔落成式要記 | 119 |
③山名氏史料館開設と濵田・太田垣氏 | 121 |
④隠寮建立 | 124 |
⑤新住職晋山と山名寺開山 | 125 |
(18)高松宮頌徳碑建立の記 | 126 |
終の段 | 132 |
法雲寺年表 | 135 |
口上 1
前書きにかえて | |
口上 | 1 |
一の段、臨済宗 報恩寺の時代 | 3 |
(1)臨済宗 報恩寺開山 | 4 |
(2)『幻の寺』報恩寺 | 8 |
(3)元和の受難 | 14 |
(4)報恩寺閉山と法雲寺開山 | 17 |
二の段 日蓮宗 法雲寺の時代 | 21 |
(1)山名氏について | 22 |
(2)山名氏菩提寺法雲寺 | 23 |
(3)山名氏霊牌 | 25 |
(4)日源・日映上人と矩豊公 | 27 |
(5)法雲寺移転事業 | 32 |
(6)矩豊公と仏教美術 | 34 |
(7)梵鐘鋳造と銘文 | 36 |
(8)日蓮宗受難と天台宗改宗 | 39 |
三の段 天台宗 法雲寺の時代 | 45 |
(1)法雲寺再中興 | 45 |
(2)矩豊公御逝去 | 49 |
(3)日映上人御遷化 | 51 |
(4)天台宗初期の頃 | 52 |
(5)藩公菩提寺の格式 | 53 |
(6)藩公御霊屋建立 | 55 |
(7)本堂再建 | 56 |
(8)山名氏と神祇 | 57 |
(9)禅高公神号勅許 | 58 |
(10)悲運の駒姫と栄光の母磐代の君 | 60 |
(11)天保の大火 | 65 |
(12)廃藩と法雲寺 | 66 |
(13)藩祖禅高公三百回遠忌 | 73 |
(14)昭和前期の頃 | 77 |
①梵鐘供出 | 77 |
②村岡山名第十二代・義路公逝去 | 78 |
③農地解放 | 79 |
④梵鐘再鋳 | 80 |
(15)昭和中期の頃 | 83 |
①高松宮様御宿奉迎準備 | 83 |
②高松宮様ご来泊 | 85 |
③第十三世山名義鶴公ご逝去 | 86 |
④本堂内外昭和修理 | 87 |
⑤山名祭奉賛会の組織 | 90 |
⑥山名祭奉修の記 | 97 |
(16)昭和後期の頃 | 100 |
①本堂大屋根改修工事と太田垣泰明氏 | 101 |
②全国山名氏一族会結成 | 105 |
③新庫裏建立 | 109 |
(17)平成の頃 | 110 |
①山名赤松両氏顕彰会結成と供養塔建立 | 110 |
②山名赤松両軍陣歿諸霊供養塔落成式要記 | 119 |
③山名氏史料館開設と濵田・太田垣氏 | 121 |
④隠寮建立 | 124 |
⑤新住職晋山と山名寺開山 | 125 |
(18)高松宮頌徳碑建立の記 | 126 |
終の段 | 132 |
法雲寺年表 | 135 |
#ls2(寺報・書籍/法雲寺縁起/)
余談ですが、『法雲寺』・『報恩寺』をカタカナで書きますと『ホウウンジ』・『ホウオンジ』と「ウ」と「オ」が一文字違うだけ。言い間違い、聞き違いのレベルです。(実際、電話口でよく報恩寺と間違われます。)どうですか?何となく「報恩寺」→「法雲寺」と、そんな気になってきませんか?
この度、前住職の手による「平成版 法雲寺縁起」が刊行されることとなりました。書名の通り本書の内容は法雲寺の前身とされる臨済宗の禅苑の成り立ちから始まり、江戸時代に藩公菩提寺と定められた日蓮宗法雲寺の時代、そしてその後、何等かの事情により再び宗旨を天台宗に変更した天台宗法雲寺の時代と……それぞれの変遷に関し既存の史料に加えて、新たに法雲寺と同時期に日蓮宗から天台宗に転宗された(させられた?)ご寺院から提供頂いた史料を加えて、時系列順に再整理した「法雲寺史」的なものとなっております。
余りよくは知られては居ませんが、法雲寺(の前身)はこの村岡が黒野村と呼ばれる以前から、臨済宗の禅苑としてこの地に存在して居たようです。それが江戸時代前期(寛永年間1642年)に、旧藩都の兎塚村から荒れた川原が広がる当地に藩都を移し、それに伴い法雲寺は山名公菩提寺と定められ、村岡と名前を改めた当地の城下町の真ん中に据えられました。それから幾多の変遷を経て今日まで約370年。
法雲寺の辿った道のりは、寛永時代のニュータウンである村岡の町(大字村岡)そのものが歩んできた足取りと大半が重なります。
そんな意味でも、本書は法雲寺檀徒の皆様を始め、城下町村岡の歴史についてご興味をお持ちの方々には是非ともご一読頂ければと思うところです。
しかし、まだまだ本書を以て法雲寺史の決定版とは言えません。今現在入手出来る範囲の史料をつなぎ合わせて一つの道筋を示した迄の事です。本書掲載内容に違和感等が御座いましたら、今後の参考とさせて頂きますので、法雲寺へ御提言願えれば幸いです。
日本国中の小規模町村が日に日に活力衰退しているかのように思える今日、本書が我が町「但馬村岡」の過去・現在・未来を見つめ直す切っ掛けの一つにでもなればと願って居ります。
以下に時代背景等に関する私なりの補足を若干付け加えます。法雲寺縁記を読まれる際の参考として頭の片隅に置いて頂けば幸いです。
法雲寺と言う名が記録に見られるようになるのは、村岡山名の菩提寺と定められた寛永19年(1642)からのことです。時代は天下分け目の「関ヶ原合戦」から40年が過ぎ、戦国時代は二昔以上も前の事で、豊臣政権を経て、徳川幕府の時代。
その徳川将軍も家康公から秀忠公を経て三代家光公の世。また、法雲寺を村岡山名菩提寺と定めた山名矩豊公も村岡山名の三代目。共に関ヶ原以降の生まれで、戦国を知らずに育った世代が、世の表舞台に顔を出し始めた頃です。
この頃までに徳川幕府は、江戸時代を通じ現代にまで影響を与える各種の制度を確立しています。江戸の文化を地方に伝搬し、諸国の物流を活発化させた参勤交代制。檀家制度の基礎となった寺請制度。その他にも禁中・宗門・公家・武家に関する諸法度も制定しています。勿論、これらは徳川幕府の支配体制を盤石とする為に定められたものでしょう。戦国時代は「武力こそが世を治める」と言う時代でありましたが、江戸時代に入ると世は変革より安定を求め、武力を後ろ盾とした治世から「理によって世を治める」時代へと変貌していった頃でもあります。「力こそが全て」の時代から「法秩序に従った時代」への転換期でも有ったのではないでしょうか。
村岡山名は鎌倉幕府成立時から続く清和源氏の名流として、徳川幕府でも重んじられ、吉良氏等と同じく大名待遇の旗本として将軍お側の役を担いました。しかし石高は6700石と小禄でした。名流として重んじて頂けるのは名誉なことですが、大名級のお付き合いはせねばならず、しかし懐具合は万石大名のようには行かずで、決して豊かとは言えなかったと想像します。
そんな中、寛永19年に参勤交代で領国入りした矩豊公は、時代の転換期を迎えるに当たって長年温めてきた藩政改革を推し進めます。その最大の課題は、太古の昔から地域の中心であった兎塚村に置いていた陣屋を荒れた川原が広がる黒野村という小集落に移し、そこに城下町の形式を備えた村岡町という新しい町を作り出すことでした。
藩政の中心である陣屋と、藩の精神的な支柱である藩公菩提寺を結ぶ線を縦軸として、その周囲に規則だった街並みを整備し、将来的な藩の発展を考えた訳です。
この村岡城下町建設は正に「寛永時代のニュータウン建設」と言えるのではないでしょうか。当然、街作りですから、陣屋や菩提寺の他にも家臣にはその待遇に応じた住まいも提供せねばなりません。武家だけでは街として成り立ちませんので、民家も無ければなりません。
元々村岡の地は二つの河川が合流して出来上がった川原場です。川を上手く管理し平坦な土地を少しでも多く取らねば街としての発展は期待出来ません。それ故、湯舟川と昆陽川の護岸と川原の埋め立てが最重要の課題となります。
豊かな藩であるならば、建物等は新築新品で対応するでしょうが、小藩小禄の上、河川工事が優先の状況では、再利用可能なものは出来る限り有効活用して、初期の村岡城下町を形作って行ったのではないでしょうか。
村岡には法雲寺の他に2件(厳浄寺・大運寺)のお寺があります。この二ヵ寺は、山名家家臣や町人等の菩提寺として城下町建設が始まった数年後に、藩内の10キロ近く離れた集落から移設されて来ています。幕府の当時の宗教政策は寺院の統廃合を進めていた時期であり、たとえ藩公菩提寺と言えども新寺建立は難しく、また、経済上の理由からも、既存寺院を再利用したと考えるのが自然ではないでしょうか?
では、どのお寺を再利用したのかですが、3代矩豊公以前の時代、初代・2代の時代に兎塚村の近くで菩提寺の役を担ったお寺(安養寺)があります。普通考えるならば、この菩提寺をそのまま新しく作る城下町に移転するのが一番当たり前のことと思えるのですが、そうはせず、このお寺は現在でも兎塚にそのまま残っています。
旧菩提寺を何故、新城下町に移さなかったのか?
それは、その必要が無かったから……新しい城下町の予定地近くには、菩提寺に利用出来る別のお寺が既にあったからでしょう。
そのお寺が「創建不詳の臨済の禅苑」(法雲寺旧梵鐘の銘文)であり法雲寺の前身であった。そして、本書ではこの名称不明のお寺の名前は、村岡町史で『幻の寺』と記された『報恩寺』では無いかと述べています。
確かに法雲寺には山名公以前から所有する飛地境内(観音山墓園)や、同じく山名公以前から伝わっていた仏餉田(現在の村岡地域局周辺)がかつては有りました。これらは山名公菩提寺となる以前からお寺があったという傍証と言えます。
まあ、一般的には法雲寺の前身が「報恩寺」でも「名称不詳の禅苑」でもどちらでも良いことですし、現在に何の影響も無いことです。しかし、創建不詳では記録に残る1642年を法雲寺の始まりと為ざるを得ず現在まで約370年余り。これが「報恩寺が前身」となれば1375年創建にまで遡りますから640年。ほぼ2倍の歴史の開きとなります。お寺を預かっている立場としては、チョット軽く考える訳にはいかないところです。
#ls2(寺報・書籍/法雲寺縁起/)
¶•「法雲寺縁起にまつわる紆余曲折」PDF
法雲寺前住職廣昭(以下:老僧)が著したこの本は、平成28年1月29日に法雲寺に納められました。
その日は丁度、老僧の二(ふた)逮夜(たいや)当日で、「これは良いお供えの品を納めてもらえた。」と喜ぶ反面、「もう2週間早く印刷に出していたら、老僧自身が本を手にとって出来映えを確かめられただろうに。」と少し残念な気持ちも半分。
もし、老僧生前に本が出来上がっていたなら多分今頃は『正誤表』作りに勤しんで居て、死(し)辰(しん)も少しは先延ばしとなっていたかも知れません。そう思うと残念な気持ちの方が勝るでしょうか?
法雲寺の歴史の中で幾つか不明な部分があります。その一つが村岡山名氏菩提寺となる江戸時代より前の法雲寺の姿。また、村岡山名氏菩提寺と定めた山名矩(のり)豊(とよ)公が晩年、それまでの日蓮宗から天台宗へ法雲寺を宗旨替えさせた事です。矩豊公は自他共に認める熱心な法華経信者でしたから尚更のことです。この宗旨替えの事も、法雲寺の前身のことも、その辺りの事情を説明したものは何も伝わっていません。
老僧はこの本を著すことにより、今まで不明であった部分も含んで法雲寺の起こりと変遷について一筋の流れを導き出してくれました。これからは老僧が明らかにしてくれた流れを基本として、後に続く者が折々に傍証を肉付けして法雲寺の歴史を語っていくことにしたいと思います。
大概、お寺の縁起というものは堅苦しい印象ですが、この本は縁起という前に読み物として、さらりと読めるように思えますので、お時間がある時に気軽に頁をめくってみて下さい。
私が何かの調べ物の折りに、江戸時代の初めに起きた日蓮宗内の「受不施派」と「不受不施派」の対立に関する一文を目にし、それを老僧に渡したことが有りました。
対立の内容は長くなるので、ここでは触れませんが、最終的には江戸幕府の裁定により「不受不施派」は解散させられ、その所属寺院は「受不施派」に転派するか、天台宗への宗旨替えを迫られます。その年代が元禄4年(1691)で法雲寺が天台宗に変わった年と一致するのですが・・・
正直な話、私などは例え同時期のことであったとしても、片や当時の仏教界のみならず江戸幕府を巻き込んでの大論争と、山名氏菩提寺とは言うものの但馬の山寺の宗旨替えが直接結びつくとは思えませんでしたが、老僧には何か感じるものがあったのでしょう。数日の内に、法雲寺と同じ時期に日蓮宗から天台宗に転向した東京のお大寺(たいじ)(碑文谷・圓融寺)のご住職に問い合わせの手紙をしたためて居りました。
しばらくして先のご住職から丁寧なお手紙と共に重厚な『圓融寺史』を頂き、一読しただけで確信を強くした老僧は、その勢いで「法雲寺縁起」の執筆に取りかかりました。時に平成26年秋の事です。
その秋から翌27年の春までの約半年、それこそ何かに取り憑かれたように老僧は原稿書きに没頭し、痛む腰を貼り薬や入浴で紛らわせ、コタツの周囲に新旧の資料を壁のように積み上げては事務用便せんに1頁ずつ細かい文字で埋め尽くしていきます。
それは朧気になっていく一方の記憶を何とか形が分かる間に少しでも文字として残そうとしているようにも見えました。
一冬の苦闘の末、翌春4月には初期の原稿は完成し、次はこの手書き原稿を元に製本に向けての作業に移るのですが、これは老僧一人では難しく否応なく我々も巻き込まれます。
老僧の手書き原稿から息子(副住)がパソコンに文字を入力し、それを引き継いで私(住職)が頁の体裁や資料や図表を加え、老僧が仕上がりをチェックする三人の分業体制で節ごと、章ごとに活字化していく段取りです。
当初はそのようにスタートした作業ですが、一冬の間無理を重ねた事も有って、4月下旬以降何度か老僧の入院などが間に入り、作業はなかなか思うようには進まず、ようやく本の内容が完成して、老僧同席の上で印刷業者の方と打ち合わせが出来たのは4月の活字化作業を開始してから8ヶ月経った12月のことでした。
この本は、老僧が執筆を始めた平成26年の秋から印刷業者にデータを渡す27年の晩秋まで約1年間の時間を経て、老僧と、老僧の指図を受けた私と息子の三人がかりで仕上げた本となります。
写真の写り具合から、表罫線の太さに至るまで細かな注文を連発し、折角仕上げた箇所でも平気で大幅な変更を言い出す老僧と、それに振り回され、その都度腹を立てたり、文句を言ったりしていた我々。
今から思えば、この本を作らなければ成らなかった事で普段より老僧と濃い一年間を過ごせたのかも知れません。
内容自体は余り面白くも無いお寺の歴史ですが、頁をめくった際にどことなく飄々とした老僧の語り口を感じて頂ければ幸いです。
尚、「正誤表」は作っておりません。本文中の誤りも八十八翁廣昭の味の一つとして、どうかお許し下さい。
平成版『法雲寺縁起』遂に完成
#ref(http://houun.jp/uploads/photos/754.JPG,mw:240,left,around,法雲寺縁起)
平成26年秋の執筆開始から約1年半の歳月を掛けて、前住職・廣昭の労作(遺作)「平成版『法雲寺縁起』」が完成しました。
是非とも多くの皆さんに読んで頂ければと思っているところですが、
先ずは、前住職葬儀に参列頂いた皆様にお配りさせて頂き、前住職を偲んで頂ければと願って居ります。
その後、ご希望の方があれば、お分け出来ればと考えている所です。
平成26年秋の執筆開始から約1年半の歳月を掛けて、前住職・廣昭の労作(遺作)「平成版『法雲寺縁起』」が完成しました。
是非とも多くの皆さんに読んで頂ければと思っているところですが、
先ずは、前住職葬儀に参列頂いた皆様にお配りさせて頂き、前住職を偲んで頂ければと願って居ります。
その後、ご希望の方があれば、お分け出来ればと考えている所です。