4: 2010-02-21 (日) 17:07:03 admin[4] [5] | 現: 2010-02-28 (日) 16:50:52 admin[4] [6] | ||
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山内大和守殿 | 山内大和守殿 | ||
- | この文書は延徳二年(一四九〇)に備後守護山名俊豊が備後の国人山内大和守豊成に宛て栖眞院領四方村を栖眞院 | + | この文書は延徳二年(一四九〇)に備後守護山名俊豊が備後の国人山内大和守豊成に宛て栖眞院領四方村を栖眞院の直務支配とすることを通知したものであるが、この栖眞院が南禅寺の塔頭であることは前述した「蔭凉軒日録』の長禄二年(一四五八)八月四日条に「南禅寺栖眞院領」とあることによって明らかである。 |
+ | では栖眞院領四夕村の在所はどこであろうか。これについては延徳二年六月二十八日付栖眞院真崇宛山名俊豊書状に | ||
+ | 「御院領備州泉田内三ヶ村御代官職事、就山内大和守と三吉涌喜上野介相論之儀、可有御直務之由、以前承候之問、其分申定候き……」 | ||
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+ | とあり、この三ヶ村が備後国憲蘇郡泉田庄内(現、広島県庄原市)にあることがわかる。 | ||
+ | 同年六月五日栖眞院真崇は山内豊成を、遠碧院請地山門千手堂領備後国四ヶ村代官職に補任し、豊成に毎年一九一貫文を公用として寺納するよう通知し、また同日付けで四ヶ村の公用と三吉涌喜方が連年未進していることを述べているので、この四ヶ村が本来は山門つまり近江国の延暦寺千手堂領であったことがわかる。それを山名持豊が兄満時の菩提所南禅寺栖眞院請地とし、南禅寺栖眞院領としたのである。 | ||
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+ | これより前、享徳三年(一四五四)九月五日には栖眞院主宗坡により山内次郎四郎(泰通)に対し、山門領備後国 | ||
+ | 西條四方村代官職が補任されている。 | ||
+ | 山名持豊は文安元年(一四四四)三月十二日に山内素通の父時通(上野介)と次の通りに契約している。 | ||
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+ | 山門領備後国四ヶ村栖眞院請地之事、従院主代官職契約之旨、令存知候、公用等厳重致取沙汰、於在所者、守補任之旨、可被申付候状如件 | ||
+ | (持豊) | ||
+ | 文安元年三月十二日(花押) | ||
+ | 山内上野介殿 | ||
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+ | 明徳四年(二二九三)十月一日、山内通忠は延暦寺により山門根本千手院領備後国憲蘇西条河北以下四箇村の所務職に補任されているが、この備後四ヶ村が泉庄(泉田庄)を中心に所在したと考えられる。 | ||
+ | 満時は但馬・備後・伯耆・因幡・石見・安芸・伊賀等の守護職を帯した山名一族の惣領父山名時熈(常熈)に先立ち早世した。この事が将軍義持の持熈(満時の弟)支持、ついで将軍義教の持豊(持熈の弟)支持となり、持熈と持豊の対立抗争になり、さらに持熈の大覚寺義昭(義教の弟)への接近に発展し、ついに持豊が山名一族の惣領となった。 | ||
+ | その持豊は兄満時の余徳をうけて山城国南禅寺栖眞院領を媒介として分国経営の一助としている。 | ||
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+ | (平成五年「一九九三」如月成稿) | ||
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