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歴史沿革​/報恩寺と法雲寺 :: 東林山法雲寺のホームページ

xpwiki:歴史沿革/報恩寺と法雲寺


「報恩寺」と「法雲寺」

法雲寺前住職 吉川 廣昭
ページ内コンテンツ
  • はじめに
  • (一)報恩寺とは
  • (二)法雲寺とは
    • (1)村岡山名氏について
    • (2)本尊仏について
    • (3)堂舎の建築について
    • (4)宗旨について
  • おわりに
  • 報恩寺・法雲寺関係年表
  • 参考資料

はじめに anchor.png[4]

昭和52年(1977)に〈村岡町誌〉が村岡町によって発行された。この地の歴史研究では最も権威ある好著であろう。筆者も一読して得るところ大であった。
ただ、その中に「幻の寺報恩寺(ほうおんじ)」と題して、この地に創建された報恩寺という一院がいつしか消滅したという一項(町誌上巻)が気になり、素人ながら以下の推論をこころみた。諸賢よろしくご寛恕ご批正たまわりたい。

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(一)報恩寺とは anchor.png[5]

  • 所在・但馬国七美庄下方未国名(現兵庫県美方郡香美町村岡区村岡、川上地内か)
  • 目的・京洛西花園妙心寺の荘園管理を荷(に)負(な)う禅苑
  • 開基・妙心寺二世授翁宗弼(塔頭微笑庵主)
  • 時期・応安5年(1372)
  • 本尊・記録したものはないが当然禅宗様式の仏体であろう。

妙心寺は花園上皇が関山慧玄(えげん)に命じて貞和3年(1372)に御所を改め禅苑とした格調高い名利である。二世を継承した授翁宗弼は山内に設けた微笑庵(みしょうあん)に処り妙心寺一山の経営に努めた。余談ながらこの授翁宗弼は「建武の中興」で後醍醐天皇の側近として功労のあった藤原藤房(万里小路〔までのこおじ〕藤房)のことで、故あって出家遁世して慧玄に就いたという。
荘園の寄進という行為は一見して佛教徒の信仰心発露と受けとれようが、そのように純粋な宗教行為ではなく現実の利害に基くものであった。古代から中世に移るにつけ、土地所有の形態も小から大へと変ってくる。律令による班田のほかに新しく開発した農地(農民)はその権益を他から侵されまいとして自衛の策を構えてくる。武士の発生である。そうした社会の動きは時代の経過とともに激烈の度に増してくる。
所謂、一所懸命といわれるように土地を守るためにはどのような手段をも講じた。荘園寄進もその一つである。中央貴族や寺社という権威ある有力者のもとに己が農地を寄進して、他からの侵犯を防ぎ、自らは収益のいくばくかを管理費として確保する――。こうして荘園制が拡がっていった。
しかし、農民層から発生した武士層の間にも強弱優劣の差が次第に顕著となって、近隣同志の争いが激化してくる。鎌倉・室町・戦国と歴史は必然的に変貌する。七美庄の妙心寺荘園も何時しか武士の手に移り報恩寺の影も薄れてきたことは否めないが、だからといって幻のように雲散霧消したと断じるのは如何なものか。
寺院とは仏道修行の場であり、仏徳弘宣の聖地である。荘園の存在が失われ、財政上の危機がおとずれたという世俗の事情だけで、花園上皇御願妙心寺の直末(じきまつ)を誇る報恩寺がすぐさま退転、消滅するとは思えない。
余談ではあるが、寺院経済の危期克服事例をひとつあげておく。さきの太平洋戦争敗戦後、日本では農地解放という大嵐が吹き荒れた。即ち、多少にかかわらず田圃を小作農家に貸し付け、年貢という名で収益の何割かを受けとっていた地主階級の存在が許されなくなったのである。全国の寺院はたいてい仏供田(ぶっくでん)仏餉田(ぶっしょうでん)といって寺院運営の為の農地を持ち、それを小作農家に託していたが、この一片の法令がすべての田地をなくしてしまったのだから、どこの寺院でも言語に絶する苦境を迎えた。然し、だからといって寺を捨てたり潰したりしたという話は聞かない。皆それぞれに工夫努力を重ねて寺を護持する方途を見出しているではないか。寺院とは、信仰とは、そうした不思議な力を持つものである。尤も元和の紫衣(しえ)事件にみるがごとく、徳川幕府が強権を発動して禁中や公家・諸大寺の特権を奪い法度(はっと・法律)で縛り付けるなどの弾圧を加えたがこれは正しく法難というべきであろう。逆らえばかつての比叡山焼討や根來寺壊滅のような破目に到ること明白である。そこで七美郡内でも幾多の臨済派の小寺院が転宗しているから報恩寺もそのとき新しい局面を探ったに違いない。

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(二)法雲寺とは anchor.png[6]

  • 所在地・往古は不明。中興開山のとき、七味郡村岡県(今の村岡本町に移築)
  • 開山・中興開山東武城北安楽山日映(法華教学の権威)
  • 開基・七味郡一円の領主村岡山名氏三世矩豊(のりとよ)
  • 宗旨・往古は臨済派の寺院。寛永19年(1642)開基矩豊の命により日蓮宗に改める。元禄4年(1691)同じく、天台宗になる。
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(1)村岡山名氏について anchor.png[7]

ここで山名氏について若干補足しておく。
平安末期から鎌倉初期にかけて源氏一統が関東をはじめ東国各地で興った。上野(こうずけ)国山名庄を拠点とした新田の一族がこの山名氏で、室町足利幕府の時代には幕府中枢、三官四職の一として重要な地位を占める。全国66か国の内、山名一族の占める国が11か国にもなったところから、世に六分一殿と呼ばれる程権威があったが、応仁の乱後、全国的に沸きあがった下剋上の抵抗――所謂、戦国時代の混乱で有力な守護大名(一国の守護職に任命された大名)は次第に勢力を失い、新興の戦国大名が実力を拡張していく。山名氏もその例のように、中世末期には織田(羽柴)対毛利の対決の狭間にあって進退に苦慮した。結極山名宗家(但馬山名)は西の毛利方に組したため但馬の国を失い山名氏は滅亡という悲運を招くに至った。
家名の断絶を憂えた分国因幡国の守護大名山名豊国は鳥取城を捨てて織田(羽柴)の陣に移った。この直後におきた本能寺の変で、天下の大勢は羽柴改め豊臣秀吉の時代になる。秀吉の許に移った山名禅高(豊国改め)は御咄衆(おはなししゅう)の一人として風雅の世界に身を置いた。そのころ先祖の菩提料として但馬国七美五郷6700石を受けている。以降、幕末まで250年間山名氏は准三位外様大名格という家名を存続し、明治元年村岡藩(11000石)立藩の宿願を果たした。
明治廃藩置県の後、藩主一家は村岡の地を離れて入洛し、花園東林院の近くに寓居をかまえる。
さて、元に戻って法雲寺開創の事情を若干の資料によって検証してみよう。
若くして七美郡一円の領主となった矩豊は、それまで代官にまかせていた領地の経営を自らの指揮で運営すべく、寛永19年(1642)初入部(お国入り)を果たした。

  1. 陣屋を郡内南端の兎塚庄から郡内中央の七美庄(黒野村とも)に移す。
  2. 黒野村中央の高台に陣屋を置き、周辺に武家屋敷(家中屋敷)、山陰街道を拡幅して、商工業者を関西各地から呼び集めるなど、小規模ながら、城下町の体制を整える。
  3. 町の防衛をはかって東西中央の三カ所に寺院を移築する。
    • 東口:大運寺(日蓮宗・小代貫田村より)
    • 西口:厳浄寺(浄土宗・兎塚庄八井谷より)
    • 中央部:法雲寺(日蓮宗、後に天台宗・七美庄川上より)
  4. 地名改称・七美庄→村岡町。・兎塚→福岡。・空山→蘇武岳。・中小屋川→昆陽川。等
  5. 領主と領民の融和を図る。
    • 初代禅高廟を中央の一二峠(ほいとうげ)に設ける。
    • 禅高像を小代庄西端の秋岡竜泉寺に祠る。
    • 村岡高堂(たかどう)に観音堂を建て庶民の信仰に資する等々。

この封地初入部のとき矩豊は23才という若年ながら熱烈な法華門徒であった。導師は江戸城北安楽山日映、四山嗣法の碩学である。その薫陶を受け早くから一家の宗旨は日蓮にすることを決めていたのか、お国入り早々にこの法雲寺に参詣し、現住日源に菩提寺たるべき由を命じている。
日源は丹波福知山の日蓮宗常照寺の徒弟である。それを法雲寺に送り込むについては恐らく七美領主矩豊と師の日映の事前交渉があったと思われる。しかしその日源は入寺後程なく死去したので師の日映自身が江戸の寺をしばらく離れて下向し、法雲寺中興の任にあたった。

矩豊恭敬三宝尊重一乗積功累徳餘之一朝疋日議于予有司相攸村岡賜広袤百弓之地―中略―移寺於茲再興一宇使予為中興開山之任
(まず矩豊公の信仰を讃え、ある日私(日映)と相談して、家臣に村岡地内に広大な用地を造成させ寺を移し、私(日映)に中興開山の任を命じられた)
(日映撰法雲寺梵鐘銘)

(まず矩豊公の信仰を讃え、ある日私(日映)と相談して、家臣に村岡地内に広大な用地を造成させ寺を移し、私(日映)に中興開山の任を命じられた)
次にこの法雲寺が報恩寺の後身であると思われる物証を二つ検証したい。本尊仏と堂舍建造物である。

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(2)本尊仏について anchor.png[8]

法雲寺の本尊は〈禅定の釈迦〉である。これは座禅を第一とする禅宗独自の様式で、一般に見る説法相の釈迦と大きくちがっている。
また仏像を荘厳する光背(後光)も頭光と呼ばれる円形の輪を頭の後部に取り付けただけの至って簡素なものである。これも華美を排し、単純を愛する禅風に依るものである。
法量(大きさ)は前幅42㎝、座高52㎝だから、あまり大きな仏体とは言えない。しかし、禅門ではこれでも大きな部類にはいる。このことは法雲寺が他の禅寺より一段上の寺格であることを示しているであろう。
従って本尊仏の大きさに準じて須弥壇・内陣の寸法も通常通りの寺院より一まわりか二まわり大きくなっている。

内陣が広いということはとりもなおさず、堂舎全体が広く高くなることで、現にある堂舎から往時と推測することができる。もっとも、現在の建物は天保15年(1844)の村岡大火災で全焼の後復旧したものであるが、社寺の復旧は文字通り旧の姿にかえることで、余程のことがなければ縮小や拡大はしない。伊勢神宮の式年遷宮がその好例であろう。(下図、本堂平面図参照ください)

本尊仏に関連して堂内の荘厳のことを考えたい。仏殿は浄土を縮めた聖域であるから、いずれの宗派も善美を尽くした仏具を調えることに熱心である。ただ、禅宗のみが虚飾を排する宗義により必要最小限の法具しか備えない。法雲寺もその伝統に従っていて、普通より広い内陣はガランとしていて厳しさはあるものの男女檀信徒の心を慰す仕組みではない。そこで昭和50年の藩祖禅高公350年遠忌に際して本尊仏や堂内の荘厳を改めて天台様式に近づけた。

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(3)堂舎の建築について anchor.png[9]

寺院といえば七堂伽藍の大寺院を思い浮かべるが、いろんな堂塔を建て連ねた大寺院は別として、町や村々の庶民の中に飛び込んで宗教活動を行う小規模寺院ではだいたい次のような形式をとっている。
一棟の建物を田の字型または目の字二つ割り型にして、仏間(内陣)を中心に参詣者室・客間・事務室・寝室・炊事室等が取り巻く方丈形式(庫裏本堂)がほとんどである。この場合、建物の大きさは仏間(内陣)の広さによって決まってくる。
多くの寺は間口二問から二間半、奥行二間から三間であるが、法雲寺の場合は間口三間奥行四間となっている。この半間から一間のちがいが各室の広さにも及んで建物全体が一般の寺よりも一回り大きくなってくる。ということは法雲寺という寺が有りきたりの寺ではなく、特殊な機能を持った寺院であることを意味するものであろう。

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(4)宗旨について anchor.png[11]

貞享4年(1685)鋳造の梵鐘銘(撰文は中興開山日映)によると
受潤山法雲寺ハ従来臨済派ノ禅苑ナリ。剏建未ダ幾百回カ知ラズ、開闢マタ不詳、何人カ中ニ衣ヲ我ガ家(日蓮宗)ニ換ヘ源師ノ餘流ヲ?ム
とあって、明らかに臨済宗であったことがわかる。
続いて法華信仰のあつい矩豊は
一朝疋予ニ議シテ…
普請奉行に命じ、新町域中央に広い用地を造成させ
寺ヲ移シ茲ニ一宇ヲ再興シ予ヲシテ中興開山ノ任ト為サシ
めた。ここで臨済宗報恩寺は日蓮宗(法華宗)法雲寺として領主山名氏の菩提寺となるである。
矩豊はまず第一番に祖父禅高・父豊政・母大沢氏の位牌を作り法雲寺に納めた。幅40㎝総丈90㎝という巨大なそれには

  • 祖父東林院殿鉄庵高公日實大居士
  • 慈天法雲院殿桂岳道栄日潤大居士
  • 悲地養安院殿妙澄日圓大禅定尼
    とあり、三霊ともに日号がついている。

それまでは禅宗の信徒であったから、祖父禅高を禅宗風に高公と称んでいたところへ新しい日蓮宗独自の「日号」が諡(いみな)されていることがわかる。
父公法雲院殿は寛永7年の逝去時、桂岳道栄大居士(隠居時寛永5年頃に拝命か?)と通常の戒名であったが、それに日号が追贈された。
母公養安院殿は妙澄日円でその時すでに日号がついているところから矩豊の法華信仰は母公逝去の寛永7年頃ということがわかる。
その日蓮宗も50年後の元禄4年(1691)には再び改めて天台宗となる。
その故はおそらく法華信仰の母山とするところが比叡山であり、日蓮門徒としても天台宗には格別の親愛感を抱いていたからであろう。それとともに、当時の天台宗が仏教界において驚異的な発展をとげていることである。
幕府創設以来、三代の将軍に近侍した大僧正天海は、東叡山寛永寺や日光山輪王寺を設けて将軍家の菩提寺になり、宗教界全体に亘(わた)って強大な支配力を有していた。
矩豊の天台宗改宗もこのような時代の潮流に添ってのことか、更に推測すれば70才という老境に至った矩豊は宗教観が円熟してきて、折伏をこととする日蓮法華宗よりも、すべてを摂受する天台法華円宗の和らぎに心ひかれてものであろうか。
そこで寛永寺執事の役を担当する市ヶ谷自證院(三代将軍の息女追善のための創建された名門寺院)の門徒となり、村岡の法雲寺も寛永寺の末寺に転属させ、住職も同じく寛永寺から堯仙を迎えた。けだし法雲寺再中興の偉業と言うべきであろう。

元禄4年(1691)施入の法雲寺祠堂状には転宗の理由明示してはいないが前記の推測に大きな誤りはあるまい。寺号の法雲が佛教用語であることは言うまでもないが、ここでは父の豊政を賞賛する意味でのものとしたい。寛永7年(1630)豊政没。諡は法雲院殿桂岳道栄大居士。さきにあげた位牌のように「日号」がついていないことに注目したい。嫡子矩豊就封。時に九才の幼年である。それから十二年経った寛永19年(1642)矩豊は領主として始めての入部を果たした。
数々の新施策の一つに山名家菩提寺の設立がある。村村の小寺院の中で藩公菩提寺にふさわしい寺といえば妙心寺直末の報恩寺となる。またホウオンの語感が矩豊の父法雲院殿のホウウンに似かよったところから寺名を法雲寺と称することにした。山号の方は受潤山で旧来どおりか。
50年後の元禄14年に東林山と改称するまでこの山号を用いている。東林の語源は中国廬山慧遠法師の東林寺に因むことは当然ながら初代禅高が晩年に己が隠居場所であり墓所でもある一院を妙心寺山内を建て、東林院と号したことによる。
名刹の多い京都でも格別の高い地位にある妙心寺の山内に一院を構えるなどのことはよほどの縁故や応援がなければできない大事業である。禅高が受領した七美郡内には、かつて妙心寺の荘園があり、妙心寺の出先機関でもある報恩寺が当時も存在していたこと、さらには京都大阪の上流社交界で禅高が高く評価されていたことにもよかろう。近衛前関白や太閤らと連歌を巻くなどで禅高の名士ぶりがうかがえる。
余談ながら、山名氏と妙心寺の関係はその後も絶えることなく、江戸末期になると村岡藩は東林院を京都藩邸のように利用して藩札や富籤を発行したり、明治初年の廃藩県地で村岡を離れた藩主山名一家が東林院の近くに寓居をかまえるなどの親密さを保っている。

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おわりに anchor.png[13]

以上、幻の寺とされた報恩寺が泡沫のごとく消え去ったのではなく、法雲寺と名を替えて現存していることを考察してきた。充分とはいえない史料での所論だから当方の意図が通じるかどうか。筆を擱くにあたって、両寺の接点に重大な役割を荷った四山嗣法日映と七美領主矩豊の対話を物語風なかたちで復習してみよう。

寛永も末の頃、江府谷中に聳える感応寺の奥まった一室で院主の日映と愛弟子の矩豊が向かいあって、先ほどから熱心に話しこんでいる。
がっしりと引き締まった風貌の上人は四山嗣法と称賛されるふさわしい重厚な口吻(くちぶり)で言った。
「…。よろしかろう。して、そなたのなさることは?」
応える矩豊公は廿を過ぎたばかりの青年武将で但馬七美郡一円6700石を領している。室町将軍家から許された准三位の家格は徳川政権下でも公認され、万石大名並みの所遇を得ている。
「今までは仕置を大人(おとな)(家老)まかせにしておりましたが、これからは私めが采を採る所存でござりまする」
「ごもっとも…‥」
「此度の初入部ではまず第一に陣屋を領内の真ん中に移しまする。そして、小さいながらも城下町とすべく、家中町(武家町)・商い町・作り町(農家)の住み分けや町の防衛のため東西中央の三カ所に寺を移し置きまして…。まん中の寺をわが山名家の菩提寺にする所存でございます」
「結構結構。してその相手の寺とは?」
「ハイ。まだみておりませぬゆえ確とは申せませぬが、むかしこの七美庄を荘園としていた花園妙心寺の直末で報恩寺とか申すそうで…」
「ではナニカ、山名家は禅宗に宗旨替えなさるおつもりか」
「イエ、その反対です。禅宗の方をわが宗に引きなおすのでございます」
「成程――」
「そのホウオン寺という名前がわが父君の院号であります法雲院殿に通じますゆえ、これからは法雲寺と称してはいかがでございましょうか」
「フーム、ご本尊はどうなされるおつもりかな?わが宗の習いではお釈迦様なら釈迦多宝二仏併坐のお姿か日蓮上人御発明の大曼荼羅、ときにはお祖師様そのままとなるが…‥」
「サテ、そうなりますると、われらごときには判りませぬ」
「もっともじゃ…。ここで我が宗のご本尊に取り替えるとなると今のご本尊を廃さねばならぬ。つまりは仏身をそこなう振舞じゃから、これは慎しまねばなりますまい…‥。ここのところは先方のお気持ちもよく承って事を荒立てぬように運ばねばのう―。妙心寺さんが相手とはチト難儀じゃぞ」
「その点なれば…‥。わが山名家は以前より妙心寺様と昵懇でして…‥。」
「ホォーッ。してどのような?」
「ハイ。わが祖父禅高は関ヶ原(合戦)の後、京洛の地に住まいいたしまして貴顕晋紳と親交を結んでおります。己が所領に妙心寺直末の報恩寺を抱えていることもあってか妙心寺の山内に隠居所を建てている程でして、東林院と申します。今の院主笠翁和尚と私めは従兄弟同志のつながりでございます」
「コリャアおどろきじゃわい。すりゃあ幸先がよろしいぞ。では日公どの、そなたは妙心寺さんの方を受け持ちなされ。拙僧は福知山の常照寺(丹波地方での日蓮宗の大寺)に当ってしかるべく協力させましょうぞ」
「いうまでもないことじゃが、日公どの。交渉に過激は禁物でござるぞ。我等とて押込強盗まがいの悪評を受けるのは心外。すべてはみほとけのおはからいと心なさることよ」
「ハイ。その旨しかと截しまして…‥。ところでついでにと申しましては何ですが、初代禅高公と二代豊政公に、わが宗門の日号をお授けねがえませんでしょうか。母君養安院様にはすでに先年頂戴しておりますゆえ」
「アァ、さようでしたな。そなたの行き届いた孝心にはホトホト感服するばかりじゃ――。ひとつ入念に拝みこんでよき日号を選んで進ぜましょうぞ」
こうした問答往復があって寛永19年の矩豊初入部と法雲寺中興の大事業が始まったのである。

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報恩寺・法雲寺関係年表 anchor.png[14]

年次西暦報恩寺・法雲寺関係関 連
建武11334建武の中興
    功臣藤原藤房出家(授翁宗弼か)
暦応11338 足利尊氏室町幕府を開く
康永41343花園妙心寺開創(花園上皇御願・関山慧玄初代)。
康永61345妙心寺二世授翁宗弼山内に微笑庵(政所)を建立。
貞治31364但馬国七美庄下方を比丘尼明瑚が微笑庵(妙心寺)に寄進。
応安31370但馬国上方(友実・胞弘名)を町経秀が微笑庵に寄進。
応安51372但馬国七美庄下方(未国名)を多紀未利が微笑庵に寄進。
応安61373但馬国七美庄上方(萩山名)を町経秀が微笑庵に寄進。
七美庄のほぼ全域が妙心寺微笑庵の荘園となる。
永和11375但馬国七美庄下方、未国名に授翁宗弼は報恩寺(荘園政所)を建立。
応仁11467  応仁の乱(11カ年)
文明91477荘園制度崩壊 戦国時代(100カ年)
  武士層の戦国大名化
天正11573織豊政権室町幕府滅亡
  安土桃山時代
天正131585 豊臣秀吉関白
慶長51600  関ヶ原の戦い
慶長61601 山名禅高、但馬国七美郡一円安堵され、兎塚庄に陣屋を置く
慶長81603 徳川家康江戸幕府開府
慶長101605山名禅高、花園妙心寺に東林院を建立
元和11615 大阪夏の陣、豊臣氏滅亡。元和偃武
  幕府は緊中や諸大寺の伝統勢力を削ぐため各種の法度を発した。
  特に臨済宗に厳しく紫衣事件を起こす。
元和41618七味郡内の臨済宗寺院数か寺が転宗廃寺となる(報恩寺の名前は見当たらない)。
寛永31626村岡山名初代禅高没。
寛永51628村岡山名二代豊政隠居三代矩豊(9才)家督。
寛永71630二代豊政没、法雲院殿と号す。
寛永121635三代矩豊、交代寄合衆に列する。
寛永191642領主山名矩豊。法雲寺を菩提寺とし臨済宗から日蓮宗(法華宗)に改宗を命ずる。
「法雲」の名の初出。
矩豊初入部、領内仕置を改める(23才)。
寛永211644法雲寺初代日源没。江戸碑文谷日映中興開山として入寺、日映は法華経の権威で矩豊の師。
正保11644村岡町西口に厳浄寺を移す。
慶安11648村岡町東口に大運寺を移す。
寛文21662法雲寺移遷事業終わる。
延宝21674法雲寺本尊釈迦如来座像を造顕(禅宗様式踏習)。
貞享41687法雲寺梵鐘鋳造、鋳銘は中興日映、受潤山法雲寺とある。
初入部以来50年経過、領主矩豊も70歳の高齢となり、新進気鋭な人格は老成円熟に、
信仰の面では日蓮宗から包摂的な天台法華円宗に移行したものか…。
元禄41691領主矩豊の命により、山号院号宗旨を改める。東林山養安院法雲寺天台宗(日蓮宗の母山)。
延淳21745法雲寺の格式定まる寺領百石・用人席出礼格(家老待遇)。 山名家御霊屋を寺内に新設。
宝暦101760現住秦侃、法雲寺堂舎を再建。
天保151844村岡大火に寺全焼(本尊仏と御霊屋は焼亡を防ぐ)、 直ちに旧儀により再建着工。
明治11868新政府より「村岡藩一万一千石」 公認。
明治21869寺領返納、法雲寺財政崩壊。廃藩置県。
昭和271952農地法により寺有田すべてを失うも、寺院の伝統維持につとめる。
昭和501975藩祖禅高公350年祭記念事業として法雲寺堂舎、仏殿の 大改修、境内整備等を実施。
平成262014以下記述省略、現在に至る。
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参考資料 anchor.png[15]

山名矩豊公奉納『妙法蓮華経第一巻奥書』同『妙法蓮華経要品奥書』
740.jpg[16]741.jpg[17]
『香美町寺社建築調査報告書』香美町教育委員会刊行より
建物調査.jpg[18]


Last-modified: 2014-09-23 (火) 21:48:26 (JST) (3501d) by admin