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寺報・書籍​/山名赤松研究ノート​/1号​/赤松軍と山名軍の合戦史 :: 東林山法雲寺のホームページ

xpwiki:寺報・書籍/山名赤松研究ノート/1号/赤松軍と山名軍の合戦史


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  • 赤松軍と山名軍の合戦史
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    • P60
    • P61
    • 播磨国攻防戦
  • 両軍の合戦一覧

赤松軍と山名軍の合戦史 anchor.png[3]

宮田靖國
小見出しは編集の都合上、付加したページ番号です。
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神南(こうない)合戦 anchor.png[4]

赤松軍と山名軍が対立した嚆矢は、おそらく観応の擾乱(じょうらん・一三五〇~五二年)で、足利尊氏と弟直義が間隙を生じ、直義が鎌倉で毒殺された後であろう。しかし、この時赤松軍と山名軍が干才(かんか)を交えた記録はない。故に、最初の合戦は、「太平記」の第三十二巻に見える神南(こうない)合戦(一三五五年)である。神南は山崎の西、桜井駅の南にある。引用すると、

「一陣二陣忽(たちまち)に攻破られて、山名彌(いよいよ)勝に乗じければ、峰々にひかえたる国々の軍勢共、未だ戦わざる先に捨鞭を打て落行きける程に、大将羽林(うりん)公(注、足利義詮)の陣の辺には僅(わずか)に勢百騎計(ばかり)ぞ残ける。是までも猶佐々木判官入道道誉、赤松律師則祐二人、少も気を屈せず、敷皮の上に居直りて、『何(いず)くへか一足も引き侯べき。 只我等が討死仕りて侯はんずるを御覧ぜられて後、御自害侯へ』と、大将をおきて奉りて、彌勇みてぞ見えたりける。大将の陣無勢に成て、而も四目結の旗一流有と見へければ、山名大に悦て申しけるは、『抑(そもそも)我此の乱を起す事、天下を傾け将軍を滅し奉らんと思うに非ず、只道誉が我に無礼なりし振舞を憎しと思う許(ばかり)也。
此に四目結の旗は道誉にてぞ有らん。是天の与たる処の幸也。
自余の敵に目な懸そ。あの頸敢て我に見せよ』と歯嚼(はが)みして前(すす)まれければ、六千余騎の兵共、我先にと勇み前んで大将の陣へ打て懸る。敵の近事二町許(ばかり)に成にければ、赤松律師則祐、帷幕を颯(さっ)と打挙げて、『天下の勝負此軍に非ずや。何の為にか命を惜むべき。名将の御前にて粉れもなく討死して、後記に留めよや』と下知しければ、云々」

と、あって、両軍、ここを先途と戦い、血河屍山を築くのである。
しかし、この文面から明らかな如く、お互いの遺恨によって戦ったのではなく、山名は南軍の一翼を担い、赤松は足利義詮を守らんとしただけの事である。ここに登場する山名は時氏の嫡男師義の事で、彼はこの戦いで、左の眼を小耳の根へ射付けられ、自害せんとした処を、河村弾正が馳寄って、おのが馬に掻乗せて逃がし、自らは殿(しんがり)となって切り死にした。

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美作国攻防戦 anchor.png[5]

かくて、神南合戦に山名は一敗地にまみれた。ついで赤松氏との合戦は、美作国で起った。時に康安元年(一三六一年)であった。
「太平記」第三十六巻には、

「斯(かか)る処に、七月十二日山名伊豆守時氏、嫡子右衛門佐師義、次男中務大輔、出雲、伯耆、因幡、三ケ國の勢三千余騎を卒して美作へ発向す。云々」

に始まり、

「赤松筑前入道世貞、舎弟律師則祐、其弟弾正少弼氏範、、大夫判官光範、宮内少輔師範、掃部助直頼、筑前五郎顕範、佐用、上月、真嶋、柏原の一族相集て二千余騎、高倉山の麓に陣を取て、敵倉懸の城を攻めなば弊(ついえ)に乗じて後攻をせんと企つと聞えければ、山名右衛門佐師義、勝(すぐ)れたる兵八百余騎を卒して、敵の近付ん所へ懸合せんと、浮勢になりて引(ひか)えたり。
-中略-
去程に倉懸の城には人多くして兵粮少なかりけば、戦う度に軍利有りといへども、後攻(ごづめ)の憑(たのみ)もなく、食盡(つき)矢種盡きければ、力なく十一月四日遂に城を落ちにけり。是より、山名山陰道四箇國を并(あわ)せて勢彌近國に振うのみに非ず、諸國の聞え、おびただしかりければ、世の中如何(いかが)あらんと危く思わぬ人も無かりけり」

と、あって、山名の勝利に終った。

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明徳の乱 anchor.png[6]

つぎの合戦は明徳二(一三九一)年十二月三十日の明徳の乱である。「明徳記」から、

「赤松上総介義則一千三百余騎。二條猪熊、松文字書きたる大旗を真前に進めて申けるは、今朝の合戦は大内勢手を砕ぬ。当手の兵荒勢にて合力の為に馳向べき由仰下されつる上ぱ他人の軍を待つべからず、先一番勢い懸人て、命を捨る軍とて旗を二條より南へ進て、くつばみを竝て待懸たり。
山名中務大輔(注、氏家)五百余騎、早々猪熊を上に押寄て、赤松勢の真中へ、エイ聲を揚て切って入て、三引両の大旗、松文字書たる赤松旗と合つ別つ廻り逢い、破り破れつ入乱れて五六度が程揉合て勝負未だ見えざる処に、奥州(注、山名陸奥守氏清)の兵五百余騎、押小路より二條猪熊へ筋変(すじか)えざまに懸入て、息もつかせず揉ければ、人馬彌が上に死重て、血はタク鹿の河となりて紅波楯を流せば、屍は屠所の肉を積り、白刃骨を砕く。
むざんと云もおろか也。
されば上総介の兵は舎弟左馬助を始めとして、佐用、柏原、宇野、上村、櫛橋、宗徒の兵五十七人討れにけり。上総介の旗差も大勢の中に懸入て、旗をば竿に取添て散々に切で廻りけるが、奥州の旗差に馳合て是非なくムズと引組で、差違て二人の者同枕に死にけり。
前代未聞の風情也。山名奥州、中務大輔両人の兵共入替入替揉ける間、上総介の兵は戦屈してあらけ立て、二条を東へ、猪熊を北へなだれ引たりける。
-中略-
かかりける処に、赤松の上総介義則は一足も退ぞかず、二条猪熊岩神の前に罄えつつ、返せいずくへ引ぞ。
此陣を破られて後日、人に嘲られんぱ義則が不覚にて有べし。
義則においては討死するぞ。
左様に契らん人々よ、返せ返せと呼ければ、有野、喜多野、浦上を先として此彼より馳寄て、主従七騎轡を竝て敵重て押懸なば、互に手を取組で討死すべしと云儘に、思定て待懸たり。
さこそ赤松上総介の兵は山名勢に打負て、引たりけるとは沙汰ありしかども、二条猪熊の破られずして、一旦引し兵共も又本陣へ馳集て、終に軍に勝ぬと天下に流布はしたりけれ」

と、あるから、まあ、引分けと言う処か。

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嘉吉の乱 anchor.png[7]

次は悲劇の嘉吉の乱(一四四一)である。周知の事なれば、簡単に「嘉吉記」から、

「赤松は定て諸大名寄せ来らん、一合戦して腹を切らんと待けれども、門外に人音もせず。
播磨へ下り、城山白旙の城を拵て、討手の下向を待つ可しと、酉刻より油小路を出て真直に東寺へかかり、路次に手さす者もなく、播磨へ下着しけり、都には軍評定あって、播州討手の手分を定らる。大手は細川讃岐守成之。赤松伊豆守貞村。武田大膳大夫信繁也。搦手は山名右衛門督持豊。同修理大夫熈高。同相摸守也。金吾人に勝て大功を立てんと願人也。
其心操驪龍頷下の玉をも奪はんほどの機分なれば、なじかは少も猶豫すべき。
大山口より國中へ切で入る。城の向い西福寺の上にはしさき河を隔て陣を取る。
修理大夫、相模守、因幡伯耆勢を率し、搦手へ廻りければ、金吾河を渡し、城山の麓に陣を取る。
十重廿重に取巻き、日夜息をも継ず攻入。壁櫓引破り城中あばらに見透し、其上兵粮も盡ければ、九月十日大膳大夫満祐入道性具自害しぬ。
城中兵人に知られるほどの者は腹を切る其数を知らず。子息彦次郎教祐いつのまにか逐電しけん。あと知らずに成けり。云々」

これを「嘉吉物語」で補足すると、

「扨も赤松殿は、御曹子のおち給いし時、その御うしろかげを見をくりて、しばしはたたずみ給いしかども、ついに大勢の中へまぎれ入り給えば、さすが親子のわかれをかなしみつつ、御袖をかおにおしあてて、なみだにむせび給いけり。
そののち安積をめされて、城のうちの体は、いかように有ぞととい給えば、あづみ申すよう、城中には御勢もなく候。
いまは御はらめされ候べしと申ければ、入道殿さては心得たりとて、先東にむきて手をあわせ、伊勢天照大神へ御いとまごいを申されけり。
さて又やわた山のかたを礼し給いて、南無八幡大菩薩、入道にただ今腹をきりすませ給えと、きせいをなし、又西にむかいて、南無や西方極楽世界の弥陀修覚、われらたとい極重の悪人なりとも、弥陀は超世のちかいおわしませば、かならず我等を安養世界にむかえさせ給えと、たなごころをあわせて、ふかくきせいをなし、御とし六十一と申すには、ついに御腹をめされけり。むねとの御一門六十九人、おなじ座敷に、安積は此人々のしがいどもを、とりひそめてのち、城中に火をかけて、腹をきらんとしたりしが、何とかおもいけん。こざくらおとしのよろいをきて、おなじ毛の五まい甲の緒をしめ、八尺あまりのしらえの長刀つえにつき、南むきの勢楼にあがり、大音あげて申すよう。是は赤松殿の御内に安積と申して、かたじけなくも、普広院どのの御首をたまわりたるものにして候が、今まで命ながらえて、度々の合戦に、敵に後ろをみせず、高名仕り候也。
よせ手の中に、大剛のつわもの我とおもわん人あらば、いざやよせ合え、勝負を決せん。高らかに名乗りければ、山名修理大夫殿の御内、村の助影安といえる兵、五人ばかりの弓に、矢をつがいて進み出で、安積殿のあまりに人もなげにののしり給うに、ほそやづかにで侍れども、矢一すじまいらせんとて、十三そく三ふせよつひき兵(ひょう)と放ちけり。
安積がもちたるなぎなたの石づきの上、三寸ばかりを射とおして、あまる矢か、矢倉の防ぎ板に箆中すぎてぞいたてける。安積こころにおもうよう、いやいやかようの者に、矢一筋にて射殺されん事は、口惜しき事なるべしとて、矢ぐらより下にとんでおり、大勢の中へわって入り、件の影安をめにかけて、おめきさけんできってまわる。
本より安積は一騎当千の兵なれば、四かく八ぽう、八はなかた十文字にきりまわり、きって落す程に、手にたつ者ぞなかりけり。やにわに敵十三騎斬って落しけり。
去程に影安、いせんあたや射つる事を無念におもいければ、安積なればとて、鬼神にてもあらじと、馬より下にとんでおり、安積殿いざやくまんとて、六尺あまりの大たちを、まっこうにさしかざしかかりけり。
安積にっこりとわらい、我等もさこそ存ずれば、いざや勝負をすべしとて、件の大なぎなたを小わきにかいこんで、おどりかかる。影安も大たちにて互いに剛の兵なれば、半時ばかり戦いしが、さらに勝負はみえざりけり。
安積心におもうよう。
いぜん影安がいたりし矢に当りなば、さこそ口惜かるべきを、かくてわたり合たる事のうれしさよと、よろこびつつ、大長刀をくきなかにとりのえて、まっこうを丁とうちければ、影安が運命のきわめにてやありけん。
きっさきほそ首に当りて、廿七歳と申すには、安積が手にかかりてうたれけり。
弟の平三影光、兄をうたせて口惜しく思いければ、安積にきってかかる。
安積にっことわらい、あらやさしの彩光や、侍のならいとて、兄をうたせ、身をすてんとおもう心ざしこそあわれなれ。
さりながら、手にたるまじき事のむざんよ。
おなじくは命をながらえて、兄の後生をとむらい給えかしといいければ、いよいよ影光はらをたて、怒りをなしてかかりけるを、なさけなくも安積殿、長うち物をすてざまに、とって引きよせ、わたかみつかんで、ひだりのわきにかいこんで、しや頸ねじきりすててけり。是をみてみなみなかなわじとやおもいけん、城のふもとまで引きしりぞきけり。
さる程に、安積は本の城にかえりて、御かたの勢をあつめけるに、わずかに百人にもたらず、うちなされけり。安積比うえはみなみなおもいおもいにおち行きて、世をすごし給うべし。
我々事は、入道殿のさだめで死出の山三途の川にてまち給えければ、急ぎおいつき奉るべしとて、入道殿の御しがいにとりつきて、南海や西方極楽世界の弥陀善逝、すでに我等ははかい無慚の凡夫なれば、かねて後生の善をいとなむ事なし。
其うえ弓矢の家に生まれぬれば、いつも殺生をのみ事とせり。かなしきかなや。さりながら弥陀方便の御ちかいをあおぎ奉れば、摂取不捨の本誓、不取正覚の悲願、たのもしきかな、たとい極悪人也とも、せいぐむなしからずんば、罪障のまよいの雲をふきはらって、真如の月の影をやどし給えつつ、ちかくはふたらく山の大悲観音、とおくは西方極楽世界の弥陀如来、われらをむかえ給えと、ねんがんしてのち、抑赤松殿の御内に、安積とて度々の合戦に、高名したる兵の、ただ今腹をきるをみおきて、心あらん侍者のちの手本にせよというもあえず、腹十文字にかききり、腹わたをつかみ出し、矢ぐらの下へなげ落しけり。
しかれども、大剛のものなれば、いまだ死なず。又本の城へかえり、入道殿の御座ありし所に火をかけ、入道殿の御跡をまくらとして、みずからとどめをさして、やけ死にけり。」
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赤松家再興戦 anchor.png[8]

かくて、持豊は播磨国を、修理大夫は美作国を、相模守は備前国を拝領した。しかし、享徳三年、細川成之ぽ赤松彦次郎祐之、彦五郎を取りなし、将軍義政は内々赦免した。かくて、翌享徳四(一四五五)年四月、

「赤松彦次郎祐之、同彦五郎則尚、播磨へ打入、国人を語らい二手に分ち、一手は檀特山を保ち国中を打随へんとし、一手は室山に持豊が子息弾正忠政豊楯籠りけるを、彦次郎彦五郎水火になって攻落さんとす。
持豊これを聞て、五月の初播磨に往て普當山に陣を取り、檀特山に楯籠りける敵を一責せめけれども落し得ざれば、ここを打捨て坂本へ通る。
其心室山に子息弾正忠政豊籠しを彦次郎急に攻て難儀の由を聞て、敵を跡におきながら坂本へ被通ける。
室山の寄手、持豊が威風におそれ、責口を引退き持豊と戦はんとせしが、引立たるくせなれば、我先にと引退けども、持豊に向て一戦を遂んと思う者はなかりけり。
持豊は両敵の間にはさまれば、手痛き合戦あらんと思ひしに、案に相違して敵散々に成り落行けば、却て残多くぞ思ける。
室山の寄手くずれたる由を檀特山に籠る軍兵共聞て、我先にと退散して、国中に敵一人もなし。
彦五郎は備前のカクイ嶋にて自害し、彦次郎は伊勢国司北畠殿親しきゆえあれば、頼み下りけれども叶ず、自害しけり。」

しかし、この抗争は応仁の乱の一因にもなり、決着は乱中に一まずついたかに見えたが、乱後にも一波乱あるのである。まずは「応仁別記」から。応仁の乱は五月廿六日に始つたが、山名と赤松の合戦は、

「同六月八目一条大宮猪熊の間にて、山名相摸守ひかえたりけるに、赤松次郎政則懸合て数刻合戦有。赤松側には浦上、小寺を始めとして爰(ここ)を詮と戦けり。
中にも依藤豊後守弓手(ゆんで)の瞼を射られ、其矢折かけて相摸守一門常陸守と組で、、上に成り下に成しが、常陸守を取 て押え、頸カキ切、太刃の先に貫き、山名常陸守をば依藤豊後守討取ったりと高聲に名乗ける。
古の鎌倉権五郎景正にも劣らぬ高名哉とぞ各褒美せられける。相摸守の内片山備前守は大力也。明右越前守是又力量の者也。
引組で上に成下に成しが、明石組勝て片山が頸を取て立挙る処に、片山が傍輩赤松孫四郎押竝て組処を、明石事ともせず組伏せ、是も頸を取る。惣じて此合戦に相摸守一族若党廿八人討死す。」
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P57 anchor.png[9]

その後、赤松氏は播磨へ下った。山名の家人被官は上洛して留守であるから、赤松は無人の野を征くが如く播磨と備前を席巻した。

「さても美作國事。山名掃部頭ふまえて有しかども、大内新介同道致すべき由申さるる間、打連れて上洛し玉ふ。又、赤松内に中村五郎左衛門尉と云者纔になりしが、大功上に立ん事を朝暮希う者なれば、傍輩ども十人計相語て、同(注、応仁元年)十月三口切て入。院の庄をふまえ、数度大略利を得しかども、東郡へ敵出て、妙見の城、菩提寺、和介山等に籠しかば、政則一名字に広岡民部少・輔祐貴に人勢を相添て差下す。三箇年の間合戦止む時なし。去乍ら、太田は山城の柏の城にて討死し、掃部頭又病死しける。其子彦房も盡期山の合戦に打負て伯耆國へ落行けり。粟井加賀、松原弾正、和介山にて討死す。中村が所々にて合戦筆に盡し難し。是より後は赤松三方国手に入れける。」

と、ある。

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文明の乱 anchor.png[10]

さて、応仁の乱終って後、山名政豊は播磨、美作、備前を取られたことを無念至極と思い、奪還せんものと兵を動かした。かくて、播但街道は軍馬往来が頻繁になってきた。「借前文明乱記」から、

「山名右衛門督政豊、三方国を召放され、赤松に返し被下事を怒り、野心を起し、文明十年九月上旬、上意を伺わず但馬国へ馳下り、軍勢を集る間、赤松兵部少輔も同十月廿一日播磨国へ下向し、此次てを以て備前国松田将監が押領する在所どもを改易すべきの由風風す。元成此事を伝え聞て、 -中略- 歩行粧にて備後国に下り、山名又次郎俊豊に申けるは、御分国とも今度一乱中、赤松に返し給こと是非無き次第に候、所詮急度思召立、御取返しあるに於ては、備前国のことは我等切開き、可進の由事ものなげに申間、俊豊も元来備前国は望也。一往の思案にも及ばず、頓て領掌あり、軍の内談も申合せて、松田をば備前国にぞ返しける。案の如く、幾程もなく政則備前に打越、彼在々所々を悉押置、給人を付たり。兼てより思儲しことなれば、但馬、備後両国へ飛脚の往還する程こそあれ、
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P58 anchor.png[11]

文明十五年九月廿六日置、山名又次郎俊豊、備後の尾道を打立、同國の國分寺に着陣し、分国他国の勢を相催す間、俊豊催促に随う輩には、先ず当国守護代太田垣美作入道。舎弟三河守。同新右衛門尉、同右京亮、三吉太郎、同和泉守。杉原三郎、木梨遠江守、本郷藤左衛門、山内新左衛門尉、同下野守。多賀新兵衛尉。滑良兵庫助。即周四郎太郎。三河内河内守。金谷山城守。花栗播磨守。湯川備中守。鍛冶屋五郎左衛門。和気筑前守。安田掃部頭、小越弾正左衛門。由谷加賀守。江田新蔵人。同與三左衛門尉。湧喜上野介。敷名備中守。下見三郎。栗原刑部左衛門尉。吉原藤左衛門尉。田尻左馬允。上之山出雲守。板倉新左衛門。安芸国には小早川。草井和泉守。竹原則光。備中国には毛利太郎。赤川和泉守っ出雲国には馬木惣兵衛尉。伯耆国には小鴨次郎四郎。同掃部助。石見国には周布、福屋、其外隣国の諸侍ども馳付ける程に、都合其勢三千余騎。十一月七日に備前国に押寄る。 -中略- 
斯て山名又次郎俊豊、備前国着陣の日より、但馬國におわする親父右衛門督の方へ、飛脚を立てらるること敷波なり。既に敵と対陣仕り、日々及合戦候。急度其國より播州へ御勢を可被指向、御延引あらば定て播磨美作の勢牒し合せなば、爰元難儀たるべき由被申けれども、上意ならざるに依て、垣屋平右衛門雑掌にて歎き申されければ、未但馬丸山城に磬、播磨國へは不打人給。赤松兵部少輔政則が方へは、 -中略- 日の中に二三度まで注進しけれども、可然功者なんどもなきか、又は若武者楚忽の義あらんと思いけるか。毎々政則には披露なく、只心得たると云儀の返事ばかりにで、一日路二日路の間に、二方国の大勢掴へながら、去年六七月より思儲けたる合戦、翌年正月下旬まで一時も馳加らざりしは、是非なき次第かなとつぶやく人も多かりけり。斯て如何なる者の異見にてか有けん。備前へは宇野下野守、浦上掃部助を摘下し、政則は十二月十六日、姫路の城を打立て、同十八日同国大賀庄と云所に着陣す。人皆仰天して、大敵備前に乱入の由、日々注進あるを聞て、如何なる事やらんと申す
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P59 anchor.png[12]

に、是は上意ならず、山名又次郎俊豊、備前国に乱入の上は、本知行但馬国朝来郡を打取べしと云儀とぞ聞きける。去程に但馬より打入べき由兼て聞えしかば、赤松伊豆孫次郎大将にて両国の境に真弓峠と云所を堀切、屏を付なんとして拵えける処に、赤松前の勢、真島、上月、宇野、柏原大将にて、一千五百余騎指遣す間、真弓峠に打上りて見れば、雪枯木を埋めて、谷も嶺も分らね程也ければ、寒気を防がんとて、或は風陰日面や、或は麓の水便を尋ねなんとして、陣屋を打居たる処に、十二月廿五日未明に、雪なれたる但馬勢、案内者を先に立て、垣用越前守大将にて、二千余騎思いよらざる山かげより押寄す。時の声を瞳と作る間、赤松勢取ものも取敢えず、支防ぎ戦うと云えども、足だまりもなき嶮岨なる山に、大雪は降積りたり。人馬の通路もあらじと油断しける間、各侍、長良、本郷、柏原、上原左京亮、同神兵衛、布施弾正忠、松田弾正左衛門なんど宗徒の者三十四人、惣じて三百余人討れて、真弓垰は破れにけり。政則此由を聞て、無念の次第也。敵陣に取向て、油断するは未練の至也と大に怒、時刻を移さず馳向う。一合戦すべしとて、大賀の陣を立て、節所の岩の懸道を伝い行程に、具足武者の事なれば、急んとすれど行やらで、夜に人ける間、兎ある谷底に陣屋を居たる所に、小倉少四郎申けるは、此谷合に御磬候はんに、敵山のかさより寄来らば、只以前の三舞なるべし。是にて御合戦なられ損じなば、姫路の城何曲候べき。只御引退有て敵勝に乗候とも、何の子細か候べき。其上雪馴れざる者とも、案内知らずの深山なればこそ、人馬の通路たやすからず候へ。国中の広みへ敵を放出し、要害に引縣て合戦し給ふに於ては、一定味方打勝候はん者をと、心底を盡し教練しければ、政則も最もと同意し、さらば打立べしとて、夜半許に陣屋を立ち取除べし、某は先陣に打、誰は殿(しんがり)せよなんどと云付たる者、いとど先陣に馳抜けて、馬物具を捨て、散々に成ければ、政則僅の兵勢にて、姫路の城にぞ籠られける。」

と、あって播但の戦いは終ったが、備前国吉井川にある川中島の福岡城では、十重二十重と取り囲んだ山名勢が、十一月二十二日、十二月十三日、同月二十五日、明けて文明十六年一月一日、二日、六日と総攻撃を敢行し、激戦を展開した。そのあり様を引用する。

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「加様に爰を先途と戦えども、山名は彌跡より続きて、引かば残る味方一騎もなかりければ、いとど難儀に見えし処に、浦上与三左衛門、子息与三手勢三百ばかりにて、大勢の中に切で入る。黒煙を立てて攻め戦い、互に勇み進んで数刻揉合ければ、組んで落ち、首を取るもあり、取らるるもあり、親は子を捨て、子は親を助けず。手負い死人を踏み越え踏み越え、命を限りに戦えば、屍は原上の塚に積り、血は則河となって紅波漲り落る有様、無慙と云もおろかなり。伝え聞く、保元平治の合戦。寿永元暦の戦いも、元弘建武の戦闘も、此程けわしき軍はあるべからず。たとえば漢の魯陽鉾を取りて日を招き返せし合戦も、斯ばかりにやと思いやらるる計(ばか)りなり。懸りける処に、松田勢と覚しくて、河原面より楯の端をたたきて鬨を作り、號叫て懸りける。是を見て浦上紀三郎、唯今討死して各の見参に入るべしと云捨て、無二無三に切で出る。然る所に、浦上伯耆守是を見て、紀三郎が鎧の袖を無手と敢て申けるは、合戦これにかぎるべからず、楚忽の討死豈(あに)大将の本とせん。大に無益なりと堅く制して出さざりければ、紀三郎も力及ばず止る処に、則國が郎等に内山弥五郎下山弾正と云て、精兵の誉れを取し者あり、此二人紀二郎が前に出て申しけるは、松田惣右衛門尉と矢記書て、最前より味方の兵数多亡命仕る事、無念に存じ侯。只今相近に見え候間、一矢仕て見んとて、内山、下山、二人ともに、一枚楯の影より、指詰引詰散々に射る。敵人多く射伏て、弓勢を顕わせり。懸る処に、惣右衛門尉親秀此を見、にくき奴ばらが荒言哉。いで手並の程を見せんとて、中指取て打番い、ヨッ引いてヒャウと放つ。此矢あやまたず下山弾正が胸板にグサと中(あた)り、押付て矢尻の出る程に見えければ、動と斃て一言を吐ず死にけり。内山弥五郎惣右衛門射る弓にて、射向の袖を脇引外へ縫様に遍ければ、二の矢に
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て内山を射る。草摺の胴付をヅバと通しければ、漸取除けるが、幾程無くぞ死したりける。あまりに合戦に屈し、気を疲しければ、相曳に引退きける。云々」

とあるが結局、赤松勢は福岡城を開城し、備前を去った。以下の戦いを、石田松蔵著「但馬史」から抜粋すると、

「その後赤松政則と浦上則宗が対立し、その内訌の間に、山名政豊は播磨、備前、美作の大半を占領してしまった。
ところが、やがて赤松と浦上は和解して、文明十六年(一四八四)十月、赤松政則は播州へ下り、翌十七年から奪還作戦に着手した。閏三月二十八日、山名政豊の部将、垣屋越前守、同平右衛門尉、その他三百五十人が討死をし、播磨蔭木城を奪取された。
この蔭木城の戦いに、赤松は六千、山名は三万の大軍であった。圧倒的な大軍にもかかわらず山名が敗けたのは、布陣を誤り、山名政豊は遠く離れた書写坂本城にいて、援軍を出す術がなかったからである」

と、ある。つづいて、

翌十八年正月六日の英賀の戦いには、塩屋越中宅、同孫右衛門以下数十人が討死し、勢いに乗った赤松政則は山名政豊の本城坂本城を攻めた。支城もつぎつぎに攻め落され、ついに長享二年(一四八八)七月、政豊は播磨放棄を決意した。撤退は悲惨であった。赤松勢はひたすら退却する山名勢を追尾して、播但国境を突破したが、それ以上深追いはしなかった。

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播磨国攻防戦 anchor.png[15]

その後、山名政豊の後を継いだ致豊の時代は何事もなかったが、その舎弟誠豊の代に、またもや播磨へ出陣した。それはゲルマン民族がアルプスを越えて、陽光輝く地巾海をめぎしてイタリアへ侵入するにも似て、見はてぬ夢であった。
播磨では浦上村国と浦上村宗が抗争していた。好機到来と、但馬守護山名誠豊は大永二年(一五一三)十月十七日、長良口より進入し、十月二十二日法花寺に十]月十一日広峯山に陣して瀬戸内近くまで制圧した。
しかし、村国は村宗に一時休戦を申し入れて和睦すると、外敵撃攘に立ち上った。即ち赤松義村の子政村が

播磨守護となって置塩城に入り、一致協力して山名誠豊に当たる。かくて城のつぶし合いが続いたが、山名誠豊の出兵命令にもかかわらず、竹田城の太田垣宗朝は出陣せず、兵站線が伸び切って、戦局は日増しに敗色が濃くなった。
翌大永三年(一五二三)十月、書写山にこもる浦上に対し総攻撃を命じたが、結果は多数の戦死者を出して敗退するのやむなきに到った。これが山名の播磨での最後の軍事行動であった。ついに十一月、誠豊は撤退命令を発し、但馬に引き揚げた。これ以後、二度と山谷が播磨を侵略することはなかった。否、逆に但馬が赤松の席巻に備えなければならなくなった。
山名誠豊の後嗣祐豊の代はいよいよ戦国に入り、山名氏も御多分に洩れず下剋上となった。生野銀山をめぐって祐豊と竹田城主太田垣朝廷は争っていた。
この時、即ち天正元年、龍野城主赤松広秀が来攻し、激しい攻防戦の末、竹田城を奪取したと、中山東華著「天正太平記」に書いてある。しかし、石田松蔵著「但馬史」にも「兵庫県史」にもその事は記されていない。竹田城の最後の城主であったことは事実であるから、それは秀吉が但馬を征服した後、以前から秀吉の部将であった赤松広秀が竹田の守将として封ぜられたのではないかと推察します。
以上で軍記物に出ている両氏の合戦を抜粋しましたが、元来浅学菲才の身で、赤松氏・山名氏の治乱興亡史を叙する事自体汗顔の至りです。赤松氏の事蹟につきましては研究不足でありますので、碩学諸賢の御叱正を仰ぎます。

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両軍の合戦一覧 anchor.png[16]

以上を箇条書きに列挙すると次のようになります。

乱又は合戦名年月日場所
神南合戦
山名師氏

赤松則祐
(文和四年)(一三五五)
二月四日(実は六日)
摂津国三島郡(高槻市)神内。
淀川をはさんで楠葉の対岸、桜井の南にあたる。
美作国攻防戦
山名時氏

赤松世貞
正平十六年(康安元年〉
七月十二日から十一月四目
美作国(岡山県北部)倉懸(くらかけの)城(英田郡作東町田殿の辺にあった城)
明徳の乱
山名氏清

赤松義則
元中八年(明徳二年)(一三九一)
十二月三十日
京都二条猪熊(二条大路と猪熊(いのくま)小路の交差点。二条城二の丸御殿の裏)
嘉吉の乱
山名持豊

赤松満祐
嘉吉元年(一四四一)
八月二十八日から九月十日
大山口・坂本城・木山(きのやま)城(兵庫県揖保郡新宮町平井字亀の山)
赤松家再興戦
山名持豊

赤松則尚
享徳四年(一四五五)
閏四月二十七日から五月十三日
播磨国一円。特に室山城(揖保郡御津町室津。備前国鹿久居島)
応仁の乱
山名持豊

赤松政則
応仁元年(一四六七)
六月から文明五年(一四七三)
山城国、播磨国、摂津国、備前国、美作国。京都市内が一番の激戦地。
文明の乱
山名政豊

赤松政則
文明十五年(一四八三)
十一月七日から長享二年(一四八八)七月
播磨国、備前国、美作国。特に播磨国の真弓峠と坂本城(姫路市書写酉坂本字溝江)
播磨国攻防戦
山名誠豊(しげとよ)

赤松政村
大永二年(一五二二)
十月十七日から翌年の十一月迄
播磨国一円。特に書写山(兵庫県姫路市曽左区書写山)


Last-modified: 2010-02-28 (日) 16:35:56 (JST) (5164d) by admin