ボーイ隊最後の活動として
種々の原因により令和6年度のボーイ隊登録の隊員数が0名となり、ボーイスカウト村岡第1団は令和6年3月をもって閉団することとになりました。
誠に残念な事では有りますが、現状のまま無理矢理に継続しても、スカウトも指導者も楽しくスカウト活動が展開できないと判断して、一旦、団を閉じる事にしました。
そんな寂しい状況でしたが、最後の活動となるであろう3/3の地図ハイクは、鉄道等を利用して少し遠くに出向いて地図ハイクを実施しました。
積み重ねの活動が出来なかった、この数年。
令和2年から続いて来たコロナ感染症の流行期間中には、何度となく蔓延防止の期間が設定されました。それに従いボーイスカウトも数ヶ月にわたる活動自粛期間を繰り返し設けました。
活動自粛の狭間で、行った活動は単発的な内容で、最近まで今のスカウト達には、スカウトハンドブックの内容に沿った活動が実施出来ませんでした。
令和5年の秋からは、コロナ感染症の心配も大分薄まり、小6スカウトを中心にして地形図とシルバコンパスを利用した活動に取り組んで来ました。
今回の地図ハイクの狙い
令和6年の冬は雪が少かったので、2月中に広範囲を動き回る地図ハイクを実施したいと考えていましたが、なかなか活動日が決められず、ようやく3月3日に活動を実施しました。
今回の活動では、地元を離れて余り地理に詳しくない場所を地図を頼りに歩いて、ポイントや課題をクリアする・・・そんな内容です。
また、地元から移動する手段として鉄道を利用して、行き先までの切符の購入や、食事・おやつ等の確保を、各スカウトが限られた個人経費の中でやり繰りする事も課題としました。日常とは少し違う体験に挑戦するのもボーイスカウト活動の面白みのように思っています。
ハイクコースの概略
活動前日の3月2日は村岡周辺では、少しの積雪があり、翌日の天候が心配されましたが、当日の朝は、前日の寒さが少し残っていましたが、雨や雪の心配は無さそうな天候に恵まれました。
今回のコース概略は、村岡地域局に集合して、JR江原→JR豊岡と普通電車に乗り、豊岡では丹後鉄道に乗り換えて、丹鉄豊岡→小天橋まで移動。
小天橋からは地図や指示書に従って、行き先や課題をクリアして最終的には久美浜駅まで歩いて、再び鉄道に乗ってJR江原まで戻ってくる計画です。
JR江原駅から乗車
当日の参加者は、中2スカウトの松元君と小6スカウトの吉田君・田尻君の3名でした。
村岡区地域局前に集合し、前日の雪が少し残る道を、隊長の車でJR江原駅に向かいました。
JR江原駅では最初の指示として、今日1日の個人経費(食費・交通費・おやつ代等)として各人2千円と金銭出納簿を受取り、10時発の豊岡行き電車の乗車券を購入するのが課題です。
勿論、使ったお金はその都度、出納簿に記録して、常に出納簿の残高と実際の残金が一致するかの確認も重要な課題です。
中にはICOCAや電子マネーを持っているスカウトは、「これを使う方が便利ですよ」と言いますが、本日は手持ちの現金2千円でやり繰りするのが重要課題ですので、カード類の使用は御法度です。
JR豊岡駅で時間待ち
JR豊岡に向かう電車は割と混んでいて、10分ほどの乗車時間は席に着かずに向かいました。
豊岡からは丹後鉄道に乗り換えるのですが、出発時間まで50分ほど時間があるので、スカウト達は小天橋に向かう乗車券を早めに購入すると、駅前のショッピングセンターへと消えて行きました。
暫くして戻ってきたスカウト達の手にはフライドチキンの紙袋が握られていました。値段は知りませんが、最初からそんなに飛ばして大丈夫かなと、心配したりします。
割と豪華な列車で京丹後へ
丹鉄豊岡駅に待機していたのは、丹鉄が北近畿タンゴ鉄道の頃、特急「丹後ディスカバリー」号として走っていた車両で、今は「丹後の海」と言う名前の快速列車として運行しているようです。
豊岡から4駅の短い乗車時間でしたが、普通の乗車券で一昔前の特急車両に乗った短い旅を楽しむことが出来ました。
道の駅で昼食
小天橋に着いたのは11時過ぎ、日曜日だったので早めに昼食を済ましておいた方が無難だったので、次の課題は近隣にある「道の駅くみはま」を地図上で確認して、そちらに向かって昼食を取る事です。
道の駅は小天橋駅の裏手に建っているのですが、道の駅に向かう道路は地図上では駅前の道を大回りして行かねばなりませんが、スカウト達はそのコースは選ばす、自分たちの勘を頼りに、駅の端から地図には載っていない小道を抜けて線路を渡り、細い農道を通って最短距離で道の駅に向かいました。
昼食のメニューはカレー派とうどん派に別れ、確か先程フライドチキンを食べたところですがすんなりとお腹に収まって行ったようです。
それに加えて、スカウトの一人は道の駅の玄関脇で店を出していたタコ焼きを一舟購入。『これは別腹』と言って直ぐに食べようとするのだけれど、流石にそれは無理がので、暫く歩いてから食べるように思い留まらせました。
地図ハイク開始
次の指示は、道の駅から浦(うら)明(け)の集落を抜けて久見浜湾沿いのコースを歩みます。堤防上の道路を歩んでいくと、波打ち際には養殖筏からこぼれ落ちた牡蠣殻が沢山流れ着いているのが見えてスカウト達の興味を引きます。
全て空っぽの貝殻かと思ったら、中には身が詰まった牡蠣も有ったりすると、興味がそっちに行ってしまい、歩くスピードがピタッと止まります。
牡蠣殻拾いを兼ねての小休止で、昼食後に買ったタコ焼きを今度も『別腹』と言いながらほおばっていました。
その後も、堤防沿いの道を進んで、神崎という集落に入り、「神の岬」と言われる岬を目指します。地図上でポイントに向かう道を調べ、実際に歩く道を確定し、ポイント近くでは指示書に載っている現地写真と同じ風景があるか確認して進みます。
神の岬を回った後は、湾沿いから離れて畑地帯を進みました。昼過ぎは少し風はあったけど暖かな日が差す天気でしたが、この頃になると吹く風の中に時折、雨粒を感じるような下り傾向の空模様となってきました。少し先を急ぐ必要が有るようです。
計画より30分ほど遅れ
この後は、山上に寺社がある甲山という山の周囲を歩いて、久美浜の町を目指すのですが、前半でダラダラとしていたせいで30分ほど予定より遅れているみたいです。
少し急ぎ足で甲山熊野神社の遙拝所を通過して塚の鳴古墳そばの大池を周回して、丹鉄かぶと山駅近くまで歩いてくると、雨の降りが本格的になり傘が必要な状況となってしまいました。
時間を見ると13時40分、最終ゴールの久美浜までは、まだ3キロほど残っています。帰りに乗る列車は14時20分、残り時間40分程しか有りません。
このまま雨の中、無理して久美浜駅まで歩いて行けないことも無さそうですが、余り楽しい道中とは思えません。
どうしたものかとスカウト達と相談していたら、遠くからかすかに警笛の音。列車の時刻表を見るとかぶと山駅を13時44分発の電車があるようなので、急遽、かぶと山駅のホームに急ぎ、久美浜駅まで列車で向かうことにしました。
結果として帰りに乗るつもりの豊岡行き列車の1本早いのに乗れたので、そのまま豊岡まで早く帰っても良かったのですが、久美浜駅で雨が収まっていたら駅周辺を散策出来るかと思って久美浜で下車です。
久美浜では
久美浜では、街中にある「豪商因幡本家」と言う、大きな昔の商家を利用した町おこしの観光施設で名物の「ぼた餅」でも食そうと考えていたのですが、残念ながら、雨の勢いも弱くならないし、歩いて往復するには時間が足らないので断念し、昔の代官所のような佇まいの久美浜駅の中でお土産を見たり、飲み物を買ったりして時間待ちをしました。
帰りは予定通り久美浜駅14時20分発の列車で豊岡に向かい、豊岡からは連絡する電車に乗ってJR江原駅には15時過ぎに帰ってきました。
最後の仕上げ
JR江原からは自動車で村岡地域局直行なのですが、スカウト達の熱い要望により、帰路途中の日高西中学校前にある駄菓子屋で最後の仕上げに取りかかりました。
各スカウトとも、最初に渡した活動経費の残金を確認しながら、お菓子やおもちゃを吟味して選び、お金が足りるか必死で暗算していました。
その甲斐あって、活動終了後に各スカウトの使用経費を確認すると1,700円~1,940円の間で、きっちりと使い切っていることに妙に関心をさせられました。
今回の活動を振り返って
今回の鉄道を利用した地図ハイクでは、点と点を一直線で結ぶ自動車での移動ではなく、回り道をしたり、時間やお金を計算する必要が有る公共交通機関を利用しました。
普段なら利用しない、手間が掛かる移動方法を選択肢の一つとして選べるのも、まだ日本が豊かな社会の証拠ではないかと思うのです。
本当はただ思いつきで鉄道を利用しただけですが、
「今回のような活動を通じて、物事の目的に至る道筋は一つではないとスカウトが学んでくれれば・・・」等と言えば、動機を美化しすぎかもしれませんね?
終わりに
今回行った地図ハイクを、次回はもっと発展させた活動にしたいところですが、残念ながら今回の活動がボーイ隊最後の活動となりました。
村岡や小代のような小さな地域が徐々に衰退していくのは仕方ないにしても、将来に向けて存在感や少し明るい未来展望を求めるには、この地域でユニークで創造的な人材を育成して行くことも、一つの方法では無いかと思います。
私の個人的な願望ですが、法雲寺別院のような都市部に拠点を確保を模索しています。出来れば、その拠点を利用した、若い年代の都市と田舎の人的交流のような事に取り組んでみたいと思っています。そんな交流への参加体験を通じて、この地域の人材育成に少しでも貢献出来ないものかと考えていました。
そんな活動や取り組みには、各地に出向いては人的交流を常にしているボーイスカウト運動の体制や精神が一番相性が良いように私は思っています。
この人的交流取り組みは、まだ「絵に描いた餅」程度の話ですが、何時の日か現実的な企画として、ボーイスカウト運動と重なるような活動に発展し、それがやがて、BS村岡1団の復活もしくは、それに準じるような組織の誕生に繋がればと願っています。
今期でBS村岡1団が閉団しても、所属していたスカウトやOB・OG、そして関係指導者には、ボーイスカウト運動の精神が根付いていると思います。
今後、計画する新たな企画に関する案内がありましたら、この文の事を思い出して、是非参加や協力を検討して頂けますようお願いします。